光明寺さんの向かいの細場を入ると、
『日切大師』です
続く。からです。
細道を入って、日切大師に向かいます。
墓地があります。
右側は、、武田酒造さんの建物でしょうか
右は店の宣伝幕
日切大師の道路からの入口横にあった、
『たつや』さんのものと思われる
『たつや 食料品部』とある
地元の食料品の宣伝
さらに、、細場を先に向かう
右の、武田酒造さんの横にも、墓地
細場を真っ直ぐ行けば、日切大師
日切大師手前に、大きな石碑
『渡辺スエ女の碑』
渡辺スエ女の碑
スエ女は渡辺小市の妻として農業の手助けをしていたが、
夫がリュウマチにかかり病床で呻吟する身となった。スエ女
は病夫の枕辺に付き添い看病にいそしむかたわら、三児の養
育を一身に引き受け、十四年の長い年月を働き続けた。しか
し、その甲斐もなく夫は明治二十一年他界した。官府及び各
種団体はスエ女の貞操を表彰し、賞状及び金品を十数度にわ
たり贈っている。スエ女はあとに残された子女の成長に望み
をかけ働いたが、今までの疲労が重なり病気となった。そし
て明治三十六年亡くなった。
スエ女の貞操は「人の鏡」と題して、小学校修身書に載せ
られた。三芳村では後生にスエ女の徳をたたえるため、昭和
三年顕彰碑を建立した。
三 芳 公 民 館
社会福祉協議会三芳支部
時代だな
美しく感じるのは、僕の頭が、時代についていけてないと
いう事だろう。
愛媛県生涯学習センターデータベース『えひめの記憶』によると、
顕彰碑の裏の記載について説明がある。
渡邊スエ(1846~1903)
【貞婦 渡邊スエ女表彰碑 碑文】
貞操の婦人に重んずべきは古今に通じて謬らず、今や斯の徳を
発揮して人の亀艦たるべき者、現に其の人ある傳へざるべけんや。
スエ女は寺町仁市の次女、弘化三年六月愛媛県楠村に生る。長じて
同郡三芳村の農渡邊小市の妻となりしが、慶応二年小市リウマチス
に罹りて病年と共に重く、明治七年よりは臥したる儘関節の痛みに
昼夜號泣するのみ、スエ女寝食を忘れて病夫を看病する傍、貧苦の
中に三人の子供を養育すること拾有餘年、一日の如く見聞する者皆
同情の涙を濺げり、斯くて明治二十一年の秋小市病癒えずして終に
永眠す。爾来スエ女は節を守りて苦しき生計を営みしが、三十六年
六月に至りて病歿せり。スエ女一生の間、官府及び各種団体より表
彰を受くること十数回、愛媛県は嘗って其の事蹟を綴りて人の鑑と
題し、小学修身書に載せたり。郷人スエ女の徳を欽仰し、石に勤し
て之を後世に伝えんとし文を予に求む。よりここに梗概を叙するこ
と斯の如し。
昭和三年秋十月 文部大臣 勝田主計
と、記されています。
顕彰碑の脇に、、、
陸軍大将
秋山好古書、、とある
過去の日本
渡辺スエさんの美談は、その時代に、お手本とされる生き方だった
だろう。
今の日ノ本の人には、どう伝わるだろう。