令和6年4月19日(9)鎌大師堂と山守喜三右衛門樣 | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

あのお山を見て、歩いて来た。

続く。からです。

写真を見たら、、いい天気だな。

雨は、、雨で、記憶に残る。

晴れも、もちろん心に刻まれる。

今回まで歩いていた道の下を行く。

その脇の電柱

難波という文字に、反応する大阪人の僕

くぐって、、、

大きな道に沿って、曲がる。

愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」には

旧道を約600m進み左折すると右手に大師堂がある。この大師堂の

本尊は弘法大師が鎌で刻んだと伝えられるところから「鎌大師」と

いわれる。このあたりは北条市下難波の地で旧道を歩いていくと、

かつては腰折山を背景に1本の大きな黒松が見えていた。鎌大師堂

の境内にそびえる「大師松」であった。樹高25m、根回り6m、

目通り5mといい、県指定の天然記念物、日本の名松百選の一つに

もなっていた。道の要所にあったところから遍路はもとより旅人の

目印となり長らく親しまれてきたこの大師松も、平成6年、松くい

虫のため枯れてしまった。

と、あります。

大きな松が目印にもなっていたんだな、、幼い頃に見たかも

しれないが、覚えていない、、。

来ました(*^_^*)

ここです。

花へんろ四ヵ所霊場 1番 鎌大師堂

鎌大師堂の横に、墓が建てられています。

『山守喜三右衛門 一家七人 之墓』です。

昔、、干ばつで貧しい村人を救おうと、山の木を切り、木を売った

お金を村人に分け与えた山守喜三衛門様が、役人の連絡の手違いで

一家七人全員処刑された話があるとのこと。

今も村人に供養されているという。

尊いお方がここにもいた。

そして、、そのご家族、、語り継ぎ、供養する地域の方。。

m(_ _)m

僕の心に、何かが刻まれた。

番外霊場 鎌大師堂

本尊 弘法大師

弘法大師が里家の鎌で自像を刻み、病平癒の祈りを諭して里人に遺し、

その後村民大いに信仰したという伝説の大師堂である。真念「道指南」

に、「かうの坂、ふもとに大師堂。」と記している。「人生は路上に

あり」著者で有名な手束妙絹尼が永らく庵主を務められていたが平成

15年3月、高齢に因り引退された。

(空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人 解説編より)

ここに、大きな松が生えていたのだろう。

霊木大師松之碑

石碑の後ろには、、、

 腰折山のふもと、鎌大師堂の境内にひときわ高く枝を広げたクロマツの巨木が

遠望された。これが愛媛県指定天然記念物の大師松である。

 この松は、根回り6m、目通し4.7m。樹高25mという巨木で、枝張りは、

東西に21m、南北に18mあり、多年風雪に耐え風格をそなえた樹齢450年の

大松であった。かつて、愛媛県下には国、県指定の多くの老松、名松があったが、

次々と枯れ、最後に残った大松として貴重な存在であった。昭和58年には、

「日本の松の緑を守る会」の名松100選にも選ばれている。大師松の名前の由来は、

弘法大師の四国巡錫にちなむ伝説から生まれ、その後、鎌大師堂の境内にあること

から大師松の愛称で呼ばれた。

 古来旧街道の要所にあって、上り下りの旅人の目標となり地域の人々だけでなく

多くの人々に親しまれていた。しかし、松喰い虫の被害により急激に樹勢が衰え

平成6年9月、遂に枯れた。名松を誇った大師松のありし日の姿を惜しみながら、

多くの人々に見守られつつ倒木された。

            平 成 7 年 7 月 吉 日 建 立

鎌大師境内

松山市指定史跡

昭和48年4月9日指定

 弘法大師が行脚の途次、この地に悪疫が流行していることを哀れ

んで、村人に鎌で刻んだ大師像をあたえたところ、無事平癒したので、

その大師像を本尊としてこの地に堂を建て、「鎌大師」と呼んで深く

信仰されてきたと言い伝えられる。

 昭和48年、境内にある芭蕉塚、十八人塚、大師松とあわせて文化財

に指定されたが、大師松は平成6年、松喰虫の被害により枯死した。

 芭蕉塚は、表に「芭蕉翁」、裏に「寛政五癸丑歳中秋一九日藤花塚築之、

松山の白兎、二要、扇谿、風早の兎文、壺茗、圃夕、杜由、可興、梅長、恕由」

と刻まれている。

 十八人塚は南北朝の戦乱に敗れた赤橋重時主従をいたんで、鎌倉末期

に立てられた墓所と言い伝えられている。

松  山  

松山市教育委員会

境内のへんろ小屋に荷物を置かせていただいて、準備。

ヘンロ小屋・鎌大師 おへんろさん休憩所

さぁ、、参らせていただこう。

続く。