あのお山を見て、歩いて来た。
続く。からです。
写真を見たら、、いい天気だな。
雨は、、雨で、記憶に残る。
晴れも、もちろん心に刻まれる。
今回まで歩いていた道の下を行く。
その脇の電柱
難波という文字に、反応する大阪人の僕
くぐって、、、
大きな道に沿って、曲がる。
愛媛県生涯学習センター データベース「えひめの記憶」には
旧道を約600m進み左折すると右手に大師堂がある。この大師堂の
本尊は弘法大師が鎌で刻んだと伝えられるところから「鎌大師」と
いわれる。このあたりは北条市下難波の地で旧道を歩いていくと、
かつては腰折山を背景に1本の大きな黒松が見えていた。鎌大師堂
の境内にそびえる「大師松」であった。樹高25m、根回り6m、
目通り5mといい、県指定の天然記念物、日本の名松百選の一つに
もなっていた。道の要所にあったところから遍路はもとより旅人の
目印となり長らく親しまれてきたこの大師松も、平成6年、松くい
虫のため枯れてしまった。
と、あります。
大きな松が目印にもなっていたんだな、、幼い頃に見たかも
しれないが、覚えていない、、。
来ました(*^_^*)
ここです。
花へんろ四ヵ所霊場 1番 鎌大師堂
鎌大師堂の横に、墓が建てられています。
『山守喜三右衛門 一家七人 之墓』です。
昔、、干ばつで貧しい村人を救おうと、山の木を切り、木を売った
お金を村人に分け与えた山守喜三衛門様が、役人の連絡の手違いで
一家七人全員処刑された話があるとのこと。
今も村人に供養されているという。
尊いお方がここにもいた。
そして、、そのご家族、、語り継ぎ、供養する地域の方。。
m(_ _)m
僕の心に、何かが刻まれた。
番外霊場 鎌大師堂
本尊 弘法大師
弘法大師が里家の鎌で自像を刻み、病平癒の祈りを諭して里人に遺し、
その後村民大いに信仰したという伝説の大師堂である。真念「道指南」
に、「かうの坂、ふもとに大師堂。」と記している。「人生は路上に
あり」著者で有名な手束妙絹尼が永らく庵主を務められていたが平成
15年3月、高齢に因り引退された。
(空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人 解説編より)
ここに、大きな松が生えていたのだろう。
霊木大師松之碑
石碑の後ろには、、、
腰折山のふもと、鎌大師堂の境内にひときわ高く枝を広げたクロマツの巨木が
遠望された。これが愛媛県指定天然記念物の大師松である。
この松は、根回り6m、目通し4.7m。樹高25mという巨木で、枝張りは、
東西に21m、南北に18mあり、多年風雪に耐え風格をそなえた樹齢450年の
大松であった。かつて、愛媛県下には国、県指定の多くの老松、名松があったが、
次々と枯れ、最後に残った大松として貴重な存在であった。昭和58年には、
「日本の松の緑を守る会」の名松100選にも選ばれている。大師松の名前の由来は、
弘法大師の四国巡錫にちなむ伝説から生まれ、その後、鎌大師堂の境内にあること
から大師松の愛称で呼ばれた。
古来旧街道の要所にあって、上り下りの旅人の目標となり地域の人々だけでなく
多くの人々に親しまれていた。しかし、松喰い虫の被害により急激に樹勢が衰え
平成6年9月、遂に枯れた。名松を誇った大師松のありし日の姿を惜しみながら、
多くの人々に見守られつつ倒木された。
平 成 7 年 7 月 吉 日 建 立
鎌大師境内
松山市指定史跡
昭和48年4月9日指定
弘法大師が行脚の途次、この地に悪疫が流行していることを哀れ
んで、村人に鎌で刻んだ大師像をあたえたところ、無事平癒したので、
その大師像を本尊としてこの地に堂を建て、「鎌大師」と呼んで深く
信仰されてきたと言い伝えられる。
昭和48年、境内にある芭蕉塚、十八人塚、大師松とあわせて文化財
に指定されたが、大師松は平成6年、松喰虫の被害により枯死した。
芭蕉塚は、表に「芭蕉翁」、裏に「寛政五癸丑歳中秋一九日藤花塚築之、
松山の白兎、二要、扇谿、風早の兎文、壺茗、圃夕、杜由、可興、梅長、恕由」
と刻まれている。
十八人塚は南北朝の戦乱に敗れた赤橋重時主従をいたんで、鎌倉末期
に立てられた墓所と言い伝えられている。
松 山 市
松山市教育委員会
境内のへんろ小屋に荷物を置かせていただいて、準備。
ヘンロ小屋・鎌大師 おへんろさん休憩所
さぁ、、参らせていただこう。
続く。