地震による年初めの大災害、、さらに増える安否不明の御方や、
復旧作業も進まない様子がニュースで流れています。
お亡くなりになられた御方のご冥福を祈り、
困難な状況におられる方々に、心からお見舞い申し上げます。
お遍路の続きを書きます。。
昨年6月は、ここを渡ってJRの駅に向かって帰った。
今回は真っ直ぐ行く
最初の寄り道
還熊八幡宮樣
続く。
からです。
出会ったおばあさんに、この辺りの神社について尋ねる。
大きな神社、、と聞いてしまい、違う神社を教えていただいた。
僕が、勝手に大きな神社と想像していたんだな。
↓ネットで、いろいろ調べていて知った本
中古書店で買いました。
ここに、載っていた遍路道沿いの「還熊八幡神社」
和気郡のへんろ道として記されている事には、、、
山越町より大川に沿った国道196号線を姫原・東長戸と進み、
旧道へ右折して鴨川へと至る。山越には、松山八社八幡宮の
一つ還熊八幡宮があるが、当社はその社名から旅立ちに際し
て参詣すれば必ず恙なくかえり来るとて信ずる人も多く、そ
れで先の大戦中は参詣者が多かった。
(おへんろさん 松山と遍路の民族 より)
とあります。
帰りたい気持ちを込めて、参り
旅立った方々がいた。
祈って願って、、
鳥居脇、道から、神社への入口の石燈籠
四国といえば、金毘羅に石鉄山
突き当りが還熊八幡宮だろう、、
石燈籠並ぶ
階段が見えました
ここですね。
おじいさん、、朝から階段の昇り降り
神様のもとで、運動されていた。
階段下の柱に刻まれている文字
よいしょ💦よいしょ💦
登り切った先に、狛犬様
おはようございますm(_ _)m
お参りさせてください。
水は、、、無し。
正面拝殿
新しく、きれいです
脇の建物
説明が建てられています。
還熊八幡神社
松山の八社八幡の七番社。祭神は、品田和気命、帯中彦命、
息長帯姫命、迦具都知命である。貞観年間(895~877)、
越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建さ
れた。
延久5(1073)年、国司の源頼義により八社八幡の一つに
加えられたという。八幡神は神功皇后の伝説から弓矢の神と
なり源氏の氏神といわれた。河野氏も源氏と深い関係を持っ
ていたので当社への尊心は厚かった。延元年間(1336~1339)
には後醍醐天皇の皇子懐良親王が武運長久を祈願したと伝え
られている。
慶長5(1600)年、関が原に出陣した加藤嘉明の留守をねらっ
て河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し、佃十成と戦ったとき、当神社
に立てこもった河野一族は敗北し、社殿、宝物等すべてが焼失
した。のちに、松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し、八社
八幡の一社として崇敬した。
『愛媛面影』に「旅行する人此社詣(づ)れば必(ず)恙無く
かへり来とて信ずる人多し。還熊と云(ふ)名によるなるべし。」
とある。
松山市教育委員会
拝殿から、階段を臨む
僕が参らせてもらった後、可愛い四人組がお参りに来ました。
「マラソン大会で1位になれますように!!」
なんて、、何度も言っていた。
純粋だな。
この後、階段で、じゃんけんして、グリコ・パイナツプル・
チヨコレイト、、、今でも、この遊びするんだね。
仲良し四人組
いつまでも仲良くね
大勢の人を迎えて見守ってくださった狛犬さん
「天保五甲午年」
脇にも御社
桧七百本植林の碑
地元の人を守り、守られ
鎮守の杜
拝殿から裏の本殿
木々茂る、静かな還熊八幡宮
神様、、ありがとうございました
続く。