令和5年12月26日④還熊(かえりぐま)八幡神社 | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

地震による年初めの大災害、、さらに増える安否不明の御方や、

復旧作業も進まない様子がニュースで流れています。

お亡くなりになられた御方のご冥福を祈り、

困難な状況におられる方々に、心からお見舞い申し上げます。

 

お遍路の続きを書きます。。

 

 

昨年6月は、ここを渡ってJRの駅に向かって帰った。

今回は真っ直ぐ行く

最初の寄り道

還熊八幡宮樣

続く。

からです。

出会ったおばあさんに、この辺りの神社について尋ねる。

大きな神社、、と聞いてしまい、違う神社を教えていただいた。

僕が、勝手に大きな神社と想像していたんだな。

↓ネットで、いろいろ調べていて知った本

中古書店で買いました。

ここに、載っていた遍路道沿いの「還熊八幡神社」

和気郡のへんろ道として記されている事には、、、

山越町より大川に沿った国道196号線を姫原・東長戸と進み、

旧道へ右折して鴨川へと至る。山越には、松山八社八幡宮の

一つ還熊八幡宮があるが、当社はその社名から旅立ちに際し

て参詣すれば必ず恙なくかえり来るとて信ずる人も多く、そ

れで先の大戦中は参詣者が多かった。

       (おへんろさん 松山と遍路の民族 より)

とあります。

 

帰りたい気持ちを込めて、参り

旅立った方々がいた。

祈って願って、、

鳥居脇、道から、神社への入口の石燈籠

四国といえば、金毘羅に石鉄山

突き当りが還熊八幡宮だろう、、

石燈籠並ぶ

階段が見えました

ここですね。

おじいさん、、朝から階段の昇り降り

神様のもとで、運動されていた。

階段下の柱に刻まれている文字

よいしょ💦よいしょ💦

登り切った先に、狛犬様

おはようございますm(_ _)m

お参りさせてください。

水は、、、無し。

正面拝殿

新しく、きれいです

脇の建物

説明が建てられています。

 還熊八幡神社

 松山の八社八幡の七番社。祭神は、品田和気命、帯中彦命、

息長帯姫命、迦具都知命である。貞観年間(895~877)、

越智(後の河野)氏によって、石清水八幡を勧請して創建さ

れた。

 延久5(1073)年、国司の源頼義により八社八幡の一つに

加えられたという。八幡神は神功皇后の伝説から弓矢の神と

なり源氏の氏神といわれた。河野氏も源氏と深い関係を持っ

ていたので当社への尊心は厚かった。延元年間(1336~1339)

には後醍醐天皇の皇子懐良親王が武運長久を祈願したと伝え

られている。

 慶長5(1600)年、関が原に出陣した加藤嘉明の留守をねらっ

て河野氏の遺臣と毛利氏が来襲し、佃十成と戦ったとき、当神社

に立てこもった河野一族は敗北し、社殿、宝物等すべてが焼失

した。のちに、松山城に移った加藤嘉明が神社を再建し、八社

八幡の一社として崇敬した。

 『愛媛面影』に「旅行する人此社詣(づ)れば必(ず)恙無く

かへり来とて信ずる人多し。還熊と云(ふ)名によるなるべし。」

とある。

                  松山市教育委員会

拝殿から、階段を臨む

僕が参らせてもらった後、可愛い四人組がお参りに来ました。

「マラソン大会で1位になれますように!!」

なんて、、何度も言っていた。

純粋だな。

この後、階段で、じゃんけんして、グリコ・パイナツプル・

チヨコレイト、、、今でも、この遊びするんだね。

仲良し四人組

いつまでも仲良くね

大勢の人を迎えて見守ってくださった狛犬さん

「天保五甲午年」

脇にも御社

桧七百本植林の碑

地元の人を守り、守られ

鎮守の杜

拝殿から裏の本殿

木々茂る、静かな還熊八幡宮

神様、、ありがとうございました

続く。