H16,4/21、9日目➁(2004年)那賀川の流れ | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

↓古いノート記録の書き出し、最初の日のリンク。

ノートの記録があるので、参考に書いていきます。

20年も前の僕の言葉です、、、。

注:もちろんデータは古いです。

 

 

デジカメは、、後で修正が簡単にできるのがいいな。

19年も昔の写真が、きれいに見れる。

こちらは、フラッシュが効果あったようだ。

お参りさせていただきます。

m(_ _)m

からです。

 

第20番札所 霊鷲山 鶴林寺

本尊 地蔵菩薩(伝弘法大師作 国宝)

開基 弘法大師

宗派 真言宗高野派

当寺は、延暦17年(798)、桓武帝の勅願寺として建立された。

(空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人 解説編より)

 

過去の記録のリンクをする。

 

 

本堂に向かう階段

この日、お参りの団体さんが多かった。

四国八十八ヶ所霊場会の鶴林寺のページには、三重塔について

徳島県下唯一の三重塔として昭和27年県指定重要文化財

江戸時代後期、文化14年(1817)着工、文政10年(1827)

上棟。と記されている。

勾欄に特徴があって初重は「擬宝珠」、二重「はね」三重に

「逆蓮柱」だとのこと。

初重は「擬宝珠」

二重「はね」

三重「逆蓮柱」

本堂

本堂前には、阿吽の鶴の銅像が並ぶ

御詠歌「しげりつる鶴の林をしるべにて
          大師ぞいます地蔵帝釈」

標高470メートルの鷲が尾の山頂の鶴林寺。

大師がこの山で修行していたとき、雌雄2羽の白鶴がかわる

がわる翼をひろげて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金の

お地蔵さんを守護していた。この情景を見て歓喜した大師は、

近くにあった霊木で高さ90センチほどの地蔵菩薩像を彫造、

その胎内に5.5センチぐらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊と

し、寺名を鶴林寺にしたといわれる。

と、記されている。

本堂左奥にある、御本尊降臨之杉

護摩堂に大師堂

ノートに、ゆっくりお経を唱えた、、と書いていた。

何を思って、何を祈ったのだろう。

あの頃の僕。

境内で、シャッターを押してしまったのだろう。

消さずに残っていた。

「しんどいなぁ、、何もわからない、、

  、、、わかるような気がしたのに、、、」

そんなつぶやきの残るノート。

忠霊殿脇の御不動様と上に三重塔を臨む。

納経帳に重ね印を頂き、次の21番札所の太龍寺へ向かう

下りの道に、疲れ、、座り込んで、、

なんでこんな写真撮ったのだろう。

何が写したかったのだろう。

太龍寺に参って、どこかでもう一泊野宿して、翌日に、

薬王寺まで行くつもりをしていた。

気持ちは先へと、身体より先に向かっていた。

平成13年に、初めて歩いた時に寝た、バス停を目指し、、。

神社だ。八幡神社です。

あぁ、、、前回(平成13年)にここで、私服でお遍路されていた、

おじさんに会ったな、、夕刻前のこと。

おじさんは、洗濯したであろう服を干していた。

九州の人だっただろうか。

あのおじさん、、お遍路を終えられたであろうか。

今はどうしているだろうか。

、、、おじさん、僕、、まだ迷って歩いています。

、、、あし

遍路道に六角の地蔵堂。

m(_ _)m

下まで降りてきました。

ここから、また山の上まで上がらないといけない。

鶴林寺、太龍寺は、のぼって下って、、のぼって下って。

結構大変。

焼山寺の遍路ころがしも厳しい道だが、こちらも厳しい。

へんろみち保存協力会の立札

ほんとうに、頼りに歩く。

今は、地図も案内も増えたけど、この頃は、そうではなかった。

大変な時期に、御尽力された会と、宮崎建樹先生に感謝です。

以前の地図には、架橋以前は、川床に降り、那賀川渡しを

利用した。

、、、そうだったんだ、そんな時代があったんだな。

20→21の所要時間

   健脚 2時間

   並足 2時間40分

、、、と書いてあるが、荷物を背負い、午後になると、、

そうもいかない。

元気な時間と、疲れたときでは、違うかも。

第12版の地図には

新しい「かも道」ルートも追加されている。

きれいな那賀川を渡る

水井橋を渡り切ったところで、待っていてくださる仏様。

のぼらせていただきます。

m(_ _)m

続く。