令和5年6/11(53)ここに生まれて、、、 | お遍路 の記憶

お遍路 の記憶

大好きな四国八十八ヶ所参りの、写真や日記を整理していきます。

『一遍上人御誕生奮跡』

『奥谷 寶巌寺』

行きましょう。

続く。からです。

岸和田祭も終わり、それぞれが次年度に向かって、動き始めます。

身体はゆっくりしたいけど、心はもう来年。

それが岸和田っ子なんでしょうね。

 

お遍路に戻ります。

51番札所 石手寺を打ち終え、裏のお山四国からの遍路道を出て、

伊佐爾波神社に参らせてもらい、脇の階段を下って、一遍上人様の

生誕の地に来ました。

番外霊場 宝厳寺

本尊 阿弥陀如来

宗派 時宗奥谷派本山

第37代斉明天皇の勅願寺で、寺伝によると弘法大師逗留の記録があ

る。当寺は、時宗の開祖「一遍上人」(1239-89、昭和15年證誠

大師号宣下)の生誕の地で、上人自作の木像がある(重文指定)。

昔から、道後温泉で疲れをいやす遍路の多くが、当寺へ参詣している。

納経は団体のみ事前予約制。当日の飛び込みは断っている

(空海の史跡を尋ねて 四国遍路ひとり歩き同行二人 解説編より)

一遍上人の誕生地

                愛媛県指定記念物(史跡)

                昭和24年 9月17日指定

 宝厳寺は一遍誕生の地といわれ、寺伝によると、天智天皇7年(667)

斉明上皇の勅願で、国司越智宿祢守興が創建、当初は法相宗に属し、そ

の後、天台宗に転じた。後、時宗が隆盛し弟子の仙阿がここに住むよう

になって、正応5年(1292)寺は再建され、時宗に改めたとある。

 時宗の開祖一遍は、河野通広の第2子として延応元年(1239)に生ま

れた。幼くして僧門に入り、文永11年(1274)時宗を開き、翌年熊野

の地で神勅を受けて「南無阿弥陀仏」と記した賦算を始めた。その後、

正応2年(1289)神戸真光寺で死すまで全国各地を念仏遊行し、一所不

在、捨聖、游行上人と崇敬された。

 「一遍上人御誕生旧跡」の碑は、河野一族の得能道綱が建立したと伝

えられている。

                      松山市教育委員会

あの、、一遍上人様の御誕生のお寺へ、、、、、

、、、き、、きれいになっている目キラキラ???

 

ネットで調べてみたら、平成25年に火災で本堂と庫裏が全焼

重要文化財の木造一遍上人立像も焼失されたという、、、。

(´;ω;`)

は平成26年に再建が始まり、平成28年に本堂および一遍上人堂の落慶

法要と一遍上人像の開眼法要が行われたとのこと。

境内には句碑が並ぶ

松山だなぁ、、、

こちらは、、正岡子規の句碑

色里や十歩はなれて秋の風

   正岡子規(1867-1902 慶応3年ー明治35年)

明治28年10月6日、快晴の日曜日だったので、子規は同居の漱石と

道後へ吟行、その日のことを記した「散策集」に、「宝厳寺の山門

に腰うちかけて」と前書きしてこの句がある。文字は句集「寒山落木」

の自筆拡大。この日に因み80年目の昭和49年10月6日に建立。

 

子規忌過ぎ一遍忌過ぎ月は秋

   坂井黙禅(188-1972 明治16年ー昭和47年)

 子規忌は9月19日、一遍忌は旧暦8月23日、太陽暦9月16日に当たる。

一遍が紀州熊野権現で成道したのが1275年、昭和49年(1974)がそれ

より700年目に当たるのを記念して、昭和49年1月に建立。

       

                       松山市教育委員会

        『俳句の里 松山』

宝厳寺 本堂

一遍上人様の有名な和歌

隣に、読みやすく、建ててくださっていた。

ありがとうございます。

意味を、、繰り返し読んで、掴みたいと思います。

続く。