令和5年6/11(3)日尾八幡神社 | お遍路 の記憶

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また来れたんだ、、来たかったんだ。

お参りさせていただきます。

神様、、階段を、、のぼります。

続く。からです。

日尾八幡神社縁起

      〇祭神

西 玉 殿  品陀和気命(応神天皇)・帯仲日子命(仲哀天皇)

中 玉 殿  多紀理毘売命・狭依毘売命・多紀都毘売命

東 玉 殿  大帯姫命(神宮皇后)

西玉殿側玉殿 健内宿禰命

中 玉 殿  伊予比売神・ 饒速日命

東玉殿側玉殿 猿田毘古大神

      〇由緒

 当社は今を去ること凡そ千二百余年前、天平勝宝四年に宇佐より

勧請し久米八幡宮と号し奉る。人皇第四十六代孝謙天皇の勅願所で

あって、社伝に、天皇は当国の僧慧明に勅して社廟を修造せしめら

れ、天平神護元年に工を起し、同二年に完成し、大神朝臣久米麿

(三輪田の祖)及び髙市古麿(武智の祖)を斎主とせられたとある。

 その後、称徳前皇の神護景雲三年二月には、勅使をもって神衣を

奉納せしめられ、又、光仁天皇宝亀七年八月及び同九年三月の両度

幣帛を奉らしめ給うなど、皇室の御敬信のきわめて厚かったことが

うかがわれる。

 中玉殿に奉斎する伊予比売命は、住吉伊予比古命と申す神ととも

に、伊予国の地神として、又、部族久米部の祖神として久米部神戸

郷古矢野神山(今の小野村大字小屋峠)に奉祀されてあったが(こ

の二柱の神は御夫婦の神なりという)中古洪水あり、社殿崩壊流失

のことがあって、神霊を同村平井谷明神ヶ鼻に遷座し奉ったが、そ

の後(延喜十七年とも云う)再び出水のため兩御神体ともに漂流し、

伊予比売命の後神霊は、日瀬里(今の久米字久保田)の龍神淵にて

引きあげ奉り、これを久米八幡宮に合祀するに至ったものである。

 当八幡神社は、その後、文治年中 右大将源頼朝によって再興せ

られ、更に承久の頃、河野通信により、社殿の改造がなされたが、

応永年中、炎上して、建造物はもとより社宝旧記の類等、悉く烏有

に帰したことは、惜しみてもなおあまりあることである。更に永享

年中、河野氏によって再び社殿が修築されたが、天正十三年河野氏

滅亡に伴ひ当社も一時大いに荒廃した。

 しかしながら、慶長八年加藤嘉明公勝山に御引移りの節、新に築

かれた城の固めとして、城山の四方にあたる、近郷の八幡宮八社を

選び定められ、各社に武運長久を祈願せられて以来、世にこれを、

八社八幡と称するようになった。而して当社もその中の一社に数え

られ、歴代藩主をはじめ、広く世の人々の益々厚く崇敬するところ

となった。殊に久松定行公以来治封二百有余年にわたる松山藩歴代

の藩主がいかに当社を深く崇敬されたかがうかがわれる。

      〇社号

当社住古は久米八幡宮と号し、中古は日王八幡宮といい、

後 日尾八幡宮と改称した。

こちらにも、、、

日尾八幡神社

 本殿は西・中・東の三玉殿に分かれ、主な祭神は品陀和気命、

帯仲日子命、大帯姫命、宗像三毘売命である。

 天平勝宝四(752)年、宇佐八幡から勧請して孝謙天皇の勅願所

となり、久米八幡と称し、神朝臣久米麻呂と髙市古麻呂が斎主に

なったという。その後、文治年間(1185~1189)に源頼朝に

よって再興され、承久年間(1219~1221)河野通信が社殿の改修

をした。以降、河野氏歴代の庇護を受けた。

 慶長八(1603)年、加藤嘉明が近郷の八社八幡を松山城の固め

とし、当社もその一つとして武運長久の祈願所となった。

松平(久松)氏も松山城鎮護として崇敬した。

 中殿に奉斎する伊予比売命は、伊予豆比古神社にまつられる伊予

比古命とともに、元は夫婦神として久米郡神戸郷古矢野神山にまつ

られていたが、洪水で流され、今では分かれてまつられていること

で有名である。

 社名は久米八幡宮から、中世には山の名をとって日王八幡宮と呼

ばれ、後日王を日尾に改称したといわれる。

                   松山市教育委員会

随神門

神額「日尾八幡大神」

狛犬様

お参りに来ました、、よろしくお願いします

さぁ、、行こう。

のぼるぞ~!!

よっこいしょ、、よっこいしょ、、💦

のぼったぞ~~(^^;)

拝殿正面の鬼飾り

左右に、獅子が舞う

社殿を守られている

手水舎

神様の御社

中央が、、中玉殿、、

左右に東・西の玉殿でしょうか。

初めて来ました、、

お参りさせてください。

続く。