わんちゃんの散歩をする方が、こちらに向いて来られた。。
実は、、ちょっと、わんちゃん怖い。
(嫌いではない)
背中の荷物も重く、走って逃げられないので、
諦める💦
なんとか、、朝の挨拶をする。
僕の、、朝の国道劇場
続く。からです。
日本だけでも、大勢の人が生きていて、それぞれが主役で、
人生のドラマを演じている。
生まれてきたならば、誰しも、老いていき、病気になり、いつか
死んでいく、、。
生きるって、、なんだろう、、
この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと
問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。
無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、
生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、
だれでも、苦しみであると答えるに違いない。
生きることは、、苦しみなの?
じゃぁ、、どうすればいいの??
このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体で
ある、わがものである、と思うのは間違っている。
心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。
だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、
我とかわがものとかいう観念を離れたものである。
“智慧のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない”
(仏教聖典より)
執着を離れたら、、「苦」から離れられるの?
そう思うことすら、執着だな、、、
「苦」を背負って生きている人は多い。
どんな「苦」だろう、、人によって、時によって違うだろう。
お釈迦様は、苦を取り除く方法を話してくださっていた。
刺さった毒矢は、先ず、抜かないといけない。
「智慧」、、、は、八正道であり、偏らない生き方なのだろうか。
、、、わかったふりして、何を書いているんだか((+_+))
僕の言葉は間違えていても、仏教聖典は正しい言葉だ。
さて、、
古い道標を見たくて、一旦、国道まで出て、遍路標識を探した。
見つけました![]()
![]()
へんろみち保存協力会の立札
ありがとうございます。m(_ _)m
この道なんだ、、道標が建てられている道。
農祖峠からおりてきたお遍路さんが、見たであろう景色。
なんの植物かな、、
濡れていて、よくわからなかったが、
「綿花」のように思った。
あった~~~!!
これだ!!!
横にある苔むした石も素敵だし、後ろの木も、、とってもいい
書き始めに、無常などと書きながら、、古いものや、自分の気に入った
ものに、執着している、、、。
こだわっている(;^ω^)
愛媛県生涯学習センターデータベース『えひめの記憶』によると、、
「👍いわやじ江二り」
「嘉永四□三月吉日 馬酔谷村中 世話人 佐□」
「左 すがわ山道 二十五丁」
嘉永年間、、1850年代の道標なんだ。
地図を見て、、来たかった、見たかった場所。
人って、、それぞれ、いろんなものに興味を示したり、
集めたりする。
170年も前の道標だった、、、折れちゃって、補修されていたな。
見れて、写真取れて良かった。\(^o^)/
道を抜けてきて、松山街道方向へ
角のポールに、遍路導きシール
風雨に頑張ってくれたのだろう、、色褪せても示してくれる。
道の左内角のポール。
「左←」
左折して、すぐ見えるあのT字路を右に行く。
その手前の、行き止まりになる細道の右細道に、
「左いわや道 七十二丁」
と、刻まれている、もう一つ遍路石があったらしい。
(後で、ネットで見てわかった)
次回、、、次回、、来れたら見たいナ。
T字路のポール
真っ直ぐ北進すれば、久万高原町中心部に向かい、44番へ
右折すれば、45番へ
矢印、、消えている。
面白いT字路だな
こんなスペースもある
右折した。
初めての道だ。
緊張する。
北東方向の山、、44番札所 大宝寺のあるお山の方だろう。
久万川を渡る
ひんやり2月の久万高原
朝9時過ぎの景色
この久万川は、、あの仁淀川に合流するんだ。
仁淀ブルーの一部になる。
久万高原町も、、どこでも、、人は人
生き方は同じ![]()
![]()
写した景色は、神社の方向でした![]()
地図を見たら、久万小田郷総鎮守 三島神社とのこと
次回、、行きたい場所が増えていく
公民館かな
素敵な日本家屋![]()
懐かしい景色がある、、
丸いものがある
石臼(ひきうす)を石垣に利用したんだな。
道脇に久万新四国47番さん
八坂寺さんだから、阿弥陀如来様と大師様だな
向かいの上も、、久万新四国のお堂でしょう
m(_ _)m
神仏のおわす地域を、歩かせていただく![]()
続く。





























