里見八犬伝第六輯 巻之四 第五十七回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之四

 

(この3 ここから)

 そうこうしていると、向こうの庭から松を伝って、築垣を躍り越えながら、飛ぶ鳥のように、こちらに走ってくる者がいた。小文吾は再び、胸が騒いで、

 「お前は、旦開野(あさけの)か」

 と呼び掛けてみるが、確かに旦開野で、乱れた黒髪で、劈(つうざ)かれた衣に鮮血が唐紅に染めて、右手(めて)には明晃晃(めいこうこう、きらきら光るさま)の氷の刃を抜き持って、左手(ゆんで)に物を引き下げながら、すでに走り近づいて、

 「犬田殿、犬田殿、さぞや待ちかねたでございましょう。辛うじて約束の符牌(きって)は手に入れました。これを見てください。」

 と言いかけて、縁側へ投げるのを、小文吾は息吹かしながら、部屋内からかざす灯火と、天に隈も無い月影に、引き寄せてみると符牌ではなく、思いかけなくも馬加大記常武の首級(くび)だったので、

 「これは、どうして」

 と驚いて、まずはその理由を尋ねると、旦開野はにっこりと笑って、

 「事の元をお話しようと思いますが、疑惑は実に正しいです。私はもともと女ではありません。今は何者かは証明できません。昔、寛正六年、冬十一月、馬加常武の奸計なる讒訴(ざんそ)で陥れられて、籠山逸東太縁連(こみやまいっとうたよりつら)に殺害された、千葉家一族の郎党である、粟飯原首胤度(あいはらおおとたねのり)の遺児が、私で、犬坂毛野胤智(いぬさかけのたねとも)と名乗っておりますが、浮世に隠れて女田楽、俗名の毛野から、旦開野と呼ばれているのは、深い故があることでございます。世の風聞(ふうぶん)聞かれたでしょう、父の正妻(ほんさい)で、名は稲城(いなぎ)、私の兄の粟飯原夢之介(あいはらゆめのすけ)、幼い姉の玉枕(たまくら)まで常武によって皆、殺されて、親戚(うから)も連座の科(とが)を蒙り、家系俸禄が跡絶えてしまい、すでに十五年の月日が経ちました。私の母は父の妾で、名を調布(たつくり)と呼ばれていましたが、身ごもって三年も産むことがなく、知音医師(ちいんくすし)等は、皆血塊であると告げましたが、辛うじて命を助けられて、やがて追放されたのでした。そして所縁をたずねて、相模州(さがみのくに)足柄郡(あしからこおり)の犬坂の里に落ち延びて、その年の十二月、安らかに私を分娩したのでした。しかし千葉家の関連を憚って、女の子だと、人には知らせて、私の名を毛野とつけられたのですが、二三年経つと、蓄えも尽き果ててしまい、母は私を抱いて、密かに其処を立ち去って、鎌倉へ向かったのですが、そうはいっても世を生きる金銭はありません。母はただ俳優(わざおぎ)の鼓を打つのが上手でしたので、女田楽に雇われて、その技をもって、なんとか私を育んでくれましたので、そして馬加に知られずにいて、八九歳(やっつここのつ)の頃から、私も田楽の組織に加えて、日夜技を教わって、熟れるには簡単な遊芸だったのか、人に知られて旦開野と、もてはやされるのは、なんとも不幸せ。そして、幾月日を送ると、私の年が十三になった空き、愁い事が積もった母が大病となり、頼み少なく見えた頃に、私を枕辺に近づけて、

 『あなたの身の上は、云々』

 親の子と、兄姉の事、馬加と籠山の二人の敵(かたき)の事も漏れなく報されて、浅ましくとても悲しく、口惜しく、どうやって二人の讐敵(あだかたき)を撃って、亡き父に手向けなければ、私が人の子として生まれた甲斐が無いと思いました。縁連だけは行方はしれず、常武は今もなお、石浜城にありました。まず常武を討ち取って、後に縁連を捜索しようと、この時決心しましたが、母の看病で暇が無ければ、しばらく時を待つと、悲しいかな、垂乳女(たらちめ、母のこと)は、その年の冬に身罷りました。穢れの日々はすでに終わりまして、この石浜へ向かって、どうやって怨みを返そうかと思いましたが、甲斐無きこの身の生い立ちでございます。輪鼓(りんご)、品玉(しなたま)、綱渡り、あるいは今様、田楽舞の他に得た技はありません、大刀を抜くことも知らずして、かの大敵を撃つことは、叶うことはできないのか、と心ならずも復讐の時を延ばしつつ、田楽の技に託(かこつ)けて、夜となく昼となく、習え覚えた自得の武芸は、剣術、拳法(やわら)、薙刀、手裏剣、組撃(くみうち)、鎖鎌(くさりかま)、誰かが教えたということはありませんが、心を師として自然の鍛錬が三年にもおよびまして、神仏のおかげか私の術に与えられていると念じて、自我一流を究めようとしました。父祖は千葉家の一族で、家系正しい武士でしたので、私もそうであれば幼少より俳優の人となるだけでなく、たまたま男子と生まれながら、女子となって世渡りしているのは、人間の大不幸、これにますものは無いといえますが、またこれなくしては、どうやって、かの常武に近づくことができましょうか。私の宿坊を遂げる日まで、この境遇であることが良いと思い返して、心にもなく、毎日髪化粧、言葉遣いから立ち居振る舞いまで、多くの女子の心を持って、近頃女田楽の一隊と連れ立って、はじめてこの地に参りましたとき、真心によるものか、天助があってか、求めなくても敵の常武の招きに応じて二十日あまり、母屋に逗留しておりましたら、人伝に聞く、貴方の行状は、世に希にみる勇士であり、見殺しにしてはならないと思いました。私の宿坊を遂げた日に、相伴って逃げることが出来れば、と思いましたので、舞曲の宵に、密かに桃の花笄を、お座りになったあたりに残して、これを試み、その後に桃源の歌をもって、相哀れむ心を示し、また昨晩は常武が刺客として季六が、貴方を殺害しようと謀ったのを、私は漏れ聞いていて後をつけて、あの築垣の側で笄を思いのままにあやつって、季六を撃ち留めたのでした。そしてその後、艶語(えんご)をもって、語らいながら情を示して、再び貴方を試したところ、色には迷わない大丈夫、柳下恵(りゅうかけい[1])にも恥じることはありませんでした。今は、この道しかないと思えば、城の符牌にかこつけて約束したのは、親の讐(あだ)を討ち取って、夜に連れ立って脱出しようと考えたからです。天や時の助けで、今日は鞍弥吾常尚(くらやごつねひさ)の誕生日の祝で、主客は酒宴で一日を過ごし、真夜中頃に席を収めて、来客は皆退いて去り、常武親子、主従はあちこちで酔い臥せっていました。今夜、怨みを返さなければ、何時、期すべきか、と思って隠していた利刀(わざもの、よく切れる刀)を密かに引っ提げて、様子を窺うと、常武父子、綱平等は、対牛楼でうたた寝していました。まずは奴らを撃とうと、梯子を潜龍(せんりゅう、潜んでいて天に昇らない龍)のように登り、蜚颺(ひよう、飛び、上がること、飛翔のこと)を得た気持ちがして、忍び寄りながら常武の枕辺に直立して、天地に響けと声高らかに、

 『馬加常武、さっさと目覚めよ。昔年(せきねん)、お前の讒訴によって、杉門路(すぎとじ)で撃たれた、粟飯原首胤度の、妾腹なる遺児、相模の犬坂にて、生まれ、その里の名を家号(かごう)に代えた、犬坂毛野胤智、ここにあり。親の敵、兄姉等の怨みを返す今暁(こんぎょう)只今、起きて勝負を決しようではないか』

 と名告りかけ呼び覚まして、枕をパッと蹴飛ばすと、常武はたちまち驚き目覚めて、肘近くにある脇差しの刀を取って抜こうとするのを、抜く前にパシッと撃つと、刃の冴えに常武の首(こうべ)は、はるか向こうに落ちて、勢い余った切先が、立っていた膝の骨にかけて切ってしまいました。左右に臥せっていた鞍弥吾綱平、等しく一同が目覚めて、驚き、

 『さては曲者、逃がすものか』

 と、同時に刀を引き抜き、打ち振り、撃とうとするのを右に受け、左に払う奮激突戦(ふんげきとっせん)、
 『おっ』

 と喚いた鞍弥吾が刃をカラリと打ち落とせば、驚き慌てて逃げようとして、背中を深く劈いて、仰け反るところを横様に、切り放つ腰車、ふたつになって倒れてしまった。この大刀音に女房の戸牧(とまき)は驚いて目覚めて、すぐに、

 『これは何事ですか』

 と呼び掛けながら、梯子を登り、その側には、手傷を負った渡部綱平、刃をもって逃げようとしていて、出合い頭に目が眩み、私を助太刀だと思ったのでしょう、戸牧を一太刀、パッと斬りました。斬られて、

 『あっ』

 と叫ぶ間もなく、梯子の上から仰け様に、落ちた下には娘の鈴子が、母を慕って起きてきていて、

 『お母様、お母様』

 と呼び掛けていて、その上に、真っ逆さまに落ちたので、鈴子は母に頬骨を打ち砕かれて、即死し、戸牧もともに重なって、息が絶えてしまいました。綱平のほうは、これを見届けて、あっけにとられて迷いながらも引き返してきて、再び私に殺意をもって向かってきましたが、片手薙刀(なぐり)で討ち取ったのでした。すでに楼上に敵はいません。残り奴原(やつばら)に目に物を見せようと、しずかに楼下(したや)に降りたって、間毎の襖を蹴り破ってみると、まだ酔いが醒めない金平太(きんへいた)、老僕の九念次、貞九郎、奴隷(しもべ)も混ざった多数は、手槍、桿棒(よりぼう)、貸刀(かしかたな)、武器様々を振りかぶって、足並みを揃えて、討ち取ろうと競っていているのを、縦横無尽に追い崩しました。群れる羊の牧の中へ、猛虎が勢いよく入り込んだように、軽い手傷を負った臼井の貞九郎が、逃げようとするのを竹を割るように斬り、返す刀で金平太の手槍をチャと切り折って、畳み掛けるように拝み撃ち、最後の十念、九念次も、数カ所の痛手を負ってよろめきながら、逃げるのを逃さず、背中からあびせかけた太刀風で、血煙を立てて死んでいきました。残る奴隷の幾人かが小者も混じって逃げ迷いながら、たちまちどっと攻めかけると、隠し目付の男童等は、この時に撃たれて目玉が飛び出て、肩骨、腰骨など打ちひしがれて自死するもの、六七人いたでしょうか。残る者も半死半生で、よろよろのまま手を合わせて、

 『お許しください』

 と詫びていたので、これ以上は無益な殺生と、思い捨ててこれらは殺さず、再び楼上に走り登り、敵の血で、傍らの壁に、

 『父兄のために皆殺しにし、旧主のために奸を撃ち、今日より後に、君の君たることを知れば、繻葛(じゅかつ)をしてまた逆さまに、かからしむることなかれ。文明十一年己亥夏五月十六日 天暁 粟飯原首胤度遺腹児(いふくこ)、犬坂毛野胤智(いぬさかけのためとも)。十五歳書す。』

 と五十余言を書き残し、その後馬加常武の首級を引っ提げてきたのでした。」

 と息継ぎもせず、説明したので、小文吾は聞く事々に、頻りに感嘆の声が出て、

 「私は、はじめからその言葉と行いがただならぬ、世に珍しい乙女だと思っていましたが、まさか噂に聞いていた、粟飯原殿の子だったとは。三年の長きに胎内で、生まれる前に禍(わざわい)を避けたのだが、天は孝烈(こうれつ)の勇士として、冤(えん、無実の罪)を晴らし、世を救われたのでしょう。一大の奇事と言うべきです。貴方は生年十五歳、三年の胎内にあった年数を考えると、十七歳といえますが、単身(みひとつ)にして十数人の大敵を撃ち尽くされたのは、過去にも聞いたことがありません。後世にますます出世なさることでしょう。お話したい事がたくさんありますし、聞きたいことも多くありますが、ここは話をしている部屋ではありません。もし、うかうかと夜が明けてしまうと、城兵等に捕縛されて、捕虜となれば後悔するでしょう。とはいえ脱出する路がありません。貴方のお考えはいかがですか。」

 と問われて毛野は頷きながら、

 「私は、馬加の許に居たときに、夜ごと臥房(ふしど)を抜け出して、城の防御、壕(ほり)の浅深(せんしん)、ここから脱出しようと考えて、その場所を見極めています。さあ、こちらへ」

 と言って、乱れた髪を押しつけて、仇の馬加常武の首級をひきよせて、髻(もとどり)を結び合わせて、腰に着け、裳裾を高く帯に挟んで、先に立ちながら両折戸の笠木に飛びついて、手を掛けて、ひらりと外に降りたって、簡単に鎖(とざし)をねじ切り捨てて、ゆっくりと扉を押し開くと、小文吾はその迅速さに感じて舌を震わせて、

 「私にはまったくできない技だ」

 と讃えて、供に馬加の屋敷を出て静かに、一緒に立ち行くと、毛野があらかじめ見極めていた搦手の東土手の、木立の中に到着した。この場所は、壕の幅も広くなかったが、四丈(七間)以上はあるようだ。その時毛野は腰に着けていた、準備の鈎縄(かぎなわ)を取り出すと、その縄の端に撃丸(げきがん)のような物を着けた。そしてその綱の片方をこちらの松に結びつけて、先程の丸(たま)を握り持って、向かいの水際に斜めに立っている柳を目標にして投げると、まっすぐにその柳の幹に、丸は三四回絡んで、引き結びのようになったのだった。

 「それでは向こうに渡りましょう」

 と、件の縄に足を踏み掛けて、走って向こうに行く姿は、平地を行くより軽々しく、小文吾は頻りに感心して、続いて渡ろうと思ったが、太くもない一筋の縄に、、足を掛ける事ができなかった。自分に呆れ、恥ずかしくなって、なかなか渡ることができなかった。毛野は、向こうからこちらを見て、先に絡まった縄の端を、柳に再び強く結びつけると、こちらに渡ってきて、

 「犬田殿、躊躇せず、私の肩につかまってください。」

 と言いながら背中を差し向けると、自分の体よりも二嵩(ふたかさ)大きな小文吾を、容易く背負ってゆっくりと、縄を踏んで渡り行くと、自若(じじゃく、平常と変わらない様子)として、顔色も変えなかった。小文吾はますます驚き感じ入って、

 「昔、宇治川の戦いで、あの橋桁を走り渡って、思いのままに大刀回りをした、筒井明春(つついみょうしゅん)、一来法師(ちらいほうし)といった者達がいたが、それよりも優っているに違いない。」

 と、思わぬ助けを歓んだのだった。


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【用語解説】
[1] 柳下恵
 中国、春秋時代に魯の盗賊、盗跖(とうき)の兄(姫子禽展獲)のこと。盗跖は盗賊の代名詞として使われ、あまりの悪党振りに兄展獲は恥じていたという。


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