南総里見八犬伝第六輯 巻之三 第五十六回 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之三

 

(この2 ここから)

 その時、馬加常武(まくわりつねたけ)は、急いで出迎えて、小文吾の手をとって、賓席(まろうどせき)をすすめるのを、小文吾は固く辞退して、その席には座らずにいて、しばらく請われて、やっと東面に向かう座に座り、季節の寒暖の挨拶を述べ、安否を問われればそれに答えているうちに、鎌倉様の結髪(かみあげ)した、女童(めのわらは)が二人、小文吾に茶を勧め、花紅葉数種(はなもみじいろいろ)の菓子を積んだ壺を座敷に持ってきて、小文吾に勧めたのだった。これより配膳の男女、盃銚子をすすめ、羹(あつもの)酢の物など種々(いろいろ)と、肴を置き並べて、饗応がとても入念の様子だった。そして、常武はゆっくりと盃を取り上げて、

 「犬田殿、まず毒味を仕ります。以前は君命を諫める甲斐無く、肝胆も胡越(こえつ:北の胡国と南の越国のように遠く離れていること)に等しく、世の豪傑のあなたを、もったいなく、長い間閉じ込めていた亊、本心ではございません、恥じて余りあります。しかし、このように打ち解けて、膝を交えて歓びを尽くすことができるのは、一朝の苦心ではありませんでした。主君の疑念を少しは解き、それがしが毎月のように、手だてのことと、御察しください。さあさあ。」

 と言いながら、その手にしていた盃を小文吾に差し向けると、小文吾は進み寄って、受け頂いて盃を、傍らに置いて、すぐには飲まず、

 「まことに、はからずも、去年から衣食の養いをいただき、今はまた山海の魚蔬(ぎょそ:魚や青物)をふるまわれて、浅からぬおもてなしをうけたまわること、皆これは大夫(常武のこと)の客への思いや好意からであり、何を言うことがありましょうか。歓びは何物にも優(ま)すべきことです。私は、元は市井(しせい:町のこと)の匹夫(ひっぷ:身分のいやしい人)です。近頃、縁があって、両刀を帯びることができたといえども、自分に一階の格式もなく、人に敬われる徳もありません。それなのに、これほどまで懇ろにしていただき、お礼を言うのも憚られます。」

 と言うのを、常武は途中で、

 「それはまた、ご遠慮がすぎます。元のお席にお座りください。」

 と何度も言われて、小文吾は、盃を持って退きながら、酒を飲むようにして、密かに椀中を傾けて捨てて、肴も箸をつけながら、食べるふりばかりしていたのだった。そうするうちに日は暮れて、あちこちに置き並べた菊燈台(きくとうだい)の銀燭(ぎんしょく:光り輝く銀色の燭台)は、さながら衆星(しゅうせい:多くの星)が煌めくように、和漢の細工を尽くしていて、方円のの杯盤(はいばん)はあたかも宝の市に入っているように思えたのだった。

 このような時に、年四十(よそじ)ばかりの老女が、摺箔(すりはく:着物に金銀の箔をのり付けしたもの)した袷衣を着て、六歳、七歳あたりの女の子の手をひいて、二十歳ぐらいの男子の肥えて脂ぎった身の丈も頭一つ高い、黄黒(かち)の袴をはいて、その彼を引き連れて、進み入ると、小文吾に会釈しつつ、やがて主(常武)の傍らに座った。常武をこれらを見返って、小文吾に向かって、

 「犬田殿、これは我が妻の戸牧(とまき)です。こちらは倅(せがれ)の馬加鞍弥吾(まくわりくらやご)です。母親の側には娘の、鈴子がおります。子供は四、五人いましたが、多くは幼児のうちに亡くなりまして、今は初子(ういご)と末女(すえのむすめ)だけです。残り少なくなりました。」

 と言うと、小文吾は膝を寄せて、歓びを述べ、名告(なのり)をすると、戸牧は、とても鷹揚(おうよう)に、言葉少なく応答すると、鞍弥吾もかなり無礼に、

 「英名(えいめい、優れた評判)は去年から耳に届いておりますよ犬田殿、君父に顔を立てて、顔を合わせていますが、本意(ほい)無しとは思いますが、今日の団らんは一刻千金、今の鬱胸(うつきょう)を晴らしてくれます。武芸は家業ですから、弓馬剣術、槍棒拳法(やりやわら)、人に劣っているとは思いませんが、いまだ手合わせの機会も無く、戦場の進退(かけひき)は熟士(ものし)に譲って、しばらくおとなしくしています。機会があれば、一試合希(こいねが)うところです。」

 と言うと、常武は微笑んで、

 「何を倅が、小賢(こさか)しげに、負けん気はあるようです。よい頃合いに四天王等を、呼んで酒を飲ませよう。やぁ、急げ急げ。」

 と急がせると、次の間に集まっていた、馬加の股肱(ここう、無くては為らないもの)の若党、渡部綱平、卜部季六、旧井貞九郎(うすいさだくろう)、坂田金平太は、同時に、

 「はっ」

 と返事をして、進み入って額をつけて、その末席に居並んで、皆は小文吾に相対して、

 「先にこちらに入来(じゅらい)したとき、主人の側に控えておりましたが、顔を見知られたのでしょう。私は渡部綱平、私は、...」

 と名告りをすると、小文吾はとても慇懃に礼を返して、

 「各位(おのおのがた)、は源頼光(げんらいこう[1])の四天王にも劣らぬ、勇士だと誰もが知っています。姓名といい、骨相(こつがら)といい、とても頼もしく感じます。」

 そのように言われても四人は恥じた顔色も無く、

 「賢察のように、不幸にして、腕を切るべき鬼女に出会えず、土蜘蛛などといった変化(へんげ)も出ませんでした。野飼の牛に気をつけていましたが、鬼童丸(おにどうまる)も隠れていませんでした。調べた道が遠かったのか、大江山路を捜索して、酒呑童子[2]の旧跡でさえも、発見できることができませんでしたのは、残念至極でございます。」

 と続語台詞(まわりせりふ)に似非的広言(えせこうげん)に、小文吾は笑いを堪えられずに、袖でも隠せず、咳きが出てしまった。

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用語解説
[1] 源頼光(みなもとのよりみつ):天暦二年(948年)生まれ。藤原兼家、道長、頼通の藤原氏摂関政治において、藤原氏の側近として支えた。特に武芸に優れ、大江山絵巻では鬼退治のシーンが描かれている。
[2] 酒呑童子(しゅてんどうじ):丹波国で、鬼を化けて財宝や婦女子を略奪をした盗賊のこと。本文で「大江山」を探す、とあるが、丹波国では大江山、近江国では伊吹山に住んでいたという。大江山では源頼光とその四天王が勅命を受けて、酒呑童子を退治したという。この出来事は様々な物語や芝居に脚色されている。

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