新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之三
第五十六回 旦開野歌儛暗遺釵児 小文吾諷諫高論舟水
朝開野(あさあけの)歌舞(かぶ)して暗(ひそか)に釵児(かんざし)を遺(おと)す
小文吾諷諫(ふうかん)して高く舟水(しゅうすい)を論す
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馬加大記常武(まくわりだいきつねたけ)は、昨年の七月(ふみつき)、小文吾を押し止めて閉じ込めて、言葉とは裏腹に、その時には次の様に考えていた、
「この犬田小文吾は、智勇を究めているから侮れない。彼がもし当家に仕えなければ、必ず私の敵となろう。それゆえに、今、追い出して、他の諸侯の助けになってしまうのも、なかなか不満である。だから彼を密かに殺害して、後顧の憂いを無くすべきだ。」
と、その後、食事の椀の中に毒を混ぜて、小文吾にすすめたところ、はっきりとした効き目もなかったので、
「これはどうしたことか」
と、不思議がり、もっと強い毒を手に入れて、六回、七回と与えたのだが、たった一日、半時も病気になることもなかったので、常武はあきらめて、
「あいつは、神仙不死(しんせんふし・神がかった不老不死のこと)の術を受けた者なのではないか。今、死なないからといって、外に放り出すのは、問題を解決できるわけではない。」
と、ますます閉じ込めた鎖を厳しくして、殺害しようと謀をたてることは、しばらく思い留まって、この年は何の成果もなく過ぎ去って、次の年の春、三月(やよい)の頃、庭掃除する下僕の品七が、ある日小文吾に囁いて、長物語をした亊、その内容、顛末は定かではないが、我が身(常武)の悪事をばらしたようだと、それを配膳の男童が、おぼろげながら聞いていて、密かに常武に報告し、常武はこれを聞いて頷いて、
「私は日頃からお前達を隠し目付として命じていたが、こういった亊を知るためだったのだ。誰であれ、これからも隠し事を見つけ次第、急いで知らせるように。」
と囁き示して、壺から菓子をこぼれるように紙に包んで、投げ与えながら、これから、心に深く憎む品七を、どうやって罪をきせようか、最後には小文吾を騙して密かに毒殺してしまおう。この頃から常武は、さらに思案をめぐらせて、
「品七の奴がしゃべったことで、小文吾は大抵の私の事を知ったのだろう。私には昔から大望があり、あの享徳の年に起きた事件の例にならって、自胤(よりたね)殿に腹を切らせて、我が子の鞍弥吾常尚(くらやごつねひさ)を、当城の主として千葉介(ちばのすけ)にならせよう、と思わない日はないぐらいだが、自胤には鎌倉の両管領が後ろ盾(うしろだて)がある。管領は私を非義として、大軍を以て攻められたならば、毛を吹いて疵をつけるようなもの(抵抗できるはずがない)だと、思い返して年月を無駄に過ごしてきたが、方便(てだて)を使って、小文吾を私の腹心にできれば、先主の孔明、後醍醐の楠公(くすのき)にも劣ることはないだろう。ああ、そうだ」
といった胸の内で目論見は既に決まったようで、
「よい頃合いだ」
と、近頃鎌倉から女田楽(おんなでんがく)の色子供五、六人が石浜城下に来ているのを思い出した。それに常武はもっぱら声色(せいしょく、世俗のもの)だけを嗜む、烏滸(おこ、馬鹿げた)なる驕り者なので、不思議な技に長けて、かつ顔が良い淫婦(たおやめ)を、多く婢妾(おんなめ)として、常に歌い舞わせるといったことをしても飽きず、他郷よりきた俳優(わざをぎ)も、自分が愛でるものがあれば、その費用を厭うことなく、幾月も長く、家中に逗留させて、酒宴の興に備えさせていたのだった。
そして、この度も件の女田楽達を招き寄せて、その技を観劇して、その中に、旦開野(あさけの)という少女(おとめ)、年齢は二十八ばかりで、顔色も美しく、技も堪能(かんのう、優れていること)だったので、その一人を留め置いて、ある日、老僕(おとな)の九念次(くねんじ)を遣わして、小文吾に、
「昨年の初秋、一度面識を得た後、白駒(はくく)の足掻(あがき)を速くして、期月(むかはりつき)が近づいてきました。前々からお話しているように、主君の疑念は未だ解けず、良薬口に苦しというように、諫言はその甲斐もなく恥じて、心ならずも疎遠となって日にちが経ちました。このように長々と籠もり居ることは、とても痛ましく思いますので、せめて、時々は母屋へ招いて、慰めようと、月頃から、いろいろと手だてをめぐらして、主君へ報告しましたら、この一条のみ許されました。よりて今宵は後堂(おくざしき)で、麁盃(そはい、酒杯のこと)をおすすめしようと思います。すでに時刻もよろしいので、九念次に案内させて、急ぎこちらへ来ていただきたい。私は面会をしてこそと、思いを尽くすだけです。」
と、白章(こくもち)の紋を染めた黒袷(くろあわせ)の衣に、袴を一領(ひとくだり)とり揃えて、引出物として贈られた。
小文吾は思いがけない常武の懇ろな招請に眉をひそめて、
「彼はまた何事かを目論んでいる。私を殺害するためだろう、と思うが、今更これを拒めば、臆したと後々に必ず笑われるだろう。ただ命運を天に任せて、行く方が良いのは確かだ。」
と決心して、たちまちにっこりと笑って、
「お急ぎのような願いを、拒んでしまっては無礼になります。貴殿に応じて御席を汚すことになります。旅の途中ですので、礼服を着せず疑いもあるかもしれませんが、お貸し頂いた服を身につけて、参りますので、しばらくお待ちください。」
と応えて、次の間に退いて、仕付糸を抜いて、袷衣(あわせきぬ)を着て、急いで片足ずつ袴に踏み入り、紐を前後ろにしっかりと結んで、脇差(わきざし)の目釘を潤して当面の用心とし、扇を腰に挟み込むと、さすが、人品整う姿が華やぎ、その風格のまま小座敷に出ると、刀の鐺(こじり)を突き立てて、
「さあ、参りましょう」
と会釈をすると、九念次は先に立って、庭より導く飛び石伝いに、閉じ込められていた両折戸を、開け放ちながら、広庭を過ぎて、長廊(わたどの)を浮橋のように渡り、奥座敷へと、縁側から入っていった。
(この1 ここまで)