里見八犬伝第六輯 巻之三 第五十六回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之三

 

(この3 ここから)

 そうして、また様々な肴を幾度となく出しては、盃を交わしているうちに、鞍弥吾と綱平等は、とても酔った様子で、皆を輪のように小文吾を取り囲み、朗らかに武芸相撲(ぶげいすもう)の技などを、詳しく議論をしていると、常武はこれを押し止めて、

 「いったい何をしているのだ。すべて武士が武士のようであるのは、糂粏(じんだ、ぬかみその亊)がぬかみそ臭いのと同じで、元々の亊だから、珍しくはないし、それを議論するのは馬鹿馬鹿しいではないか。さあ、どいた、どいた。」

 と退けて、季六(すえろく)だけを呼び留め、

 「お前はしばらくそこに居れ。少し言い付ける用事があるのだ。」

 と心得させながら微笑んで、小文吾を振り返ると、

 「犬田殿、とても片腹痛かったでしょう。若者共の風情の無い話は、言わせた酒に科(とが)がありますので、心にかけませんように。たまたま憂さを慰めようと、思うためでしたが興がなお浅かったのです。この頃鎌倉から女田楽が何人かがここへも参りました。その中に、一人優れた者がおりましてので、呼んで留め置きました。それを肴に今一度、お過ごしください。」

 という声が次の間に聞こえて、かねてから事の準備をしていた、大小の鼓(つづみ)を打ち、笛を吹く婢子供(おんなこども)、とても麗しい装いをして、出てきて縁側に並んだのだった。

 その時とても艶妖(あでやか)な女性、年齢は二十八になったばかりか、摺箔縫箔(すりはくぬいはく)した、六尺袖の表衣(うちぎ)に雑色(いろいろ)の下襲(したかさね)を着て、炊き込めた奇南(き)の香も、気が付かなかったが、今の世ではとても珍しいもので、帯の上裳(うわも)も着けて、幅広い部分を縦に結んでいて、腰は風にたなびく柳のように、姿は独り立つ花に似ていた。色好みの心をもって、この姿を見たら、たちまち魂は天外に飛び、この女性のためには命も惜しくはないと思うだろうが、小文吾の性格では、声色(せいしょく、徒なるもの)を嗜まないので、目の前に出てきたこの女性をよくも見ず、心の中では、爪弾きして、どこかに行ってくれと思っていた。

 そして件の女田楽は、まず主人夫婦の方に向かって額付き、また小文吾にも額付き、そのまま少し退いて、この席の中央を向かい様にして座った。常武はうれしそうに、遥かに彼女らを見て、

 「それ季六よ、お前はどのように思うか。これほどの俳優(わざをぎ)のたたずまいは、申し分なく、素本(そほん、解釈や注の無い白文の書物の亊)の源氏(源氏物語のこと)を読むようであろう。お前は武芸ばかりだから、猿楽にも理解できるようにと、先程呼び止めたのだ。さあ、お前も舞え。」

 と促すと、季六は酔いにまかせて、少しも臆すること無く、

 「仰せのこと、まことにその通りでございます。では、では。」

 と言いながら、扇を手に持ち、大股で進み出でながら袴の襞(ひだ)を左右(まて)にとって披(ひら)かせながら、女田楽の女性の左に座り直して、膝折伏せて、しばらく額付き、頭を擡げて、濁声を発して、

 「東西、東西、南北中央、この席上なる大人(だいじん)、君子へ、敬って告げ奉ります。罷り出でたる少女子(おとめこ)は薪樵る(たきぎこる、薪を切る鎌の事で、鎌倉の枕詞)鎌倉から下って、名を旦開野(あさけの)と呼ばれる甲斐に、唯今日の出の勢いの人気者でございます。こちらへは初めての見参で、咲(さき)揃わぬ初花(はつはん)に降り注ぐ雨のの足拍子(あしひょうし)、扇の風を手毎(てこと)の間で、多少の間違いはあるかもしれませんが、その時は海津藻(わだつも、海の海藻)のように長い目で、見てくださいますよう、請い願い奉ります。そもそも田楽は内容も、題目もとても多いものです。その数編を述べますと、就中(なかんつく)、咒師(のろし)、侏儒舞(ひくひとのまい)、田楽、傀儡子(くぐつし)、唐術(からてつま)、品玉(しなたま)、輪鼓(りんご)、八玉之曲(やつたまのきょく)、独相撲に、独双六、無骨有骨(ほねなしほねあり)、延動大領之腰支(のびゆるぎたいりょうのこしばせ)、蝦漉舎人之足仕(えびすくひとれりのあしつかい)、氷上専当之取袴(ひがみとうめのとりはかま)、山背大御之指扇(やましろおおごのさしおうぎ)、琵琶法師之物語(びわほうしのものがたり)、千秋万歳之酒祝(せんずまんさいのさけほかい)、腹鼓之胸骨(はらつつみのむなほね)、蟷螂舞之頭筋(いばじりまいのつぶりすじ)、福広聖之袈裟求(ふくわうひじりのけさもとめ)、妙高尼之襁褓乞(みょうこうにのむつきごい)、形勾当之面現(けいこうとうのひたおもて)、早職亊之皮笛(そうしょくじのかわふえ)、目舞之翁体(さくわんまいのおきなすがた)、巫遊之気装貌(かんなぎあそびのけはいがお)、京童之虚左礼(きょうわらべのそらざれ)、東人之初京上(あづまひとのういきょうのぼり)、これらは男田楽の人々がよく演じるものである。しかし、この女田楽の人は、男の技にも堪能で、幾節竹(いくよたけ)の一本立(ひともとたち)、八尋細(やひろほそ)の綱渡(つなわたり)、これらは特に見事である。そうしていると夜も更けてきて、演目は後にする亊として、今宵はまず、今様の踊りのふりをして、笑おうではないか。これはまさに桃源の故事にならった、とても目出度い一曲で、山路の桃と名づけられたものであろう。ゆえに開場に相応しい。」

 としゃべり連ねて逃げるように、次の間に向かって退くと、あとにはどっと婢女(おなご)等が、腹を抱えて立ち上がって、堪えられずに吹き出しながら、そのまま臥せって笑う者もいた。山田の畦(あぜ)に隠れて、日影がわびしいと集まる木兎(づく)や、飛び立つのを忘れた群雀(むらすずめ)のように、自ら狂う響(どよ)みには、しばらく鳴りも止むことは無かった。

 しばらくして、しっとりとした笛の音に、鼓の調べが打ち添えられて、旦開野(あさけの)が立ち上がってみると、姿形も美しく、

 「そもそも、これは讃岐州(さぬきのくに)、屋島、壇ノ浦のほとりにある、弓削山(ゆげやま)の麓に住んでおります、賤婦(しずめ)でございます。ある日、里の乙女が子をつれて、同国の八栗山(やくりやま)に遊び来たところ、この谷川の上流からとても愛でたい盃が流れ来たのを見て、さてはこの山の奥に、浮世を避けた神仙(やまのひじり)が、きっと住んでいるに違いないと思ったのです。それで、どこまでも分け入って、訪ねてみようかと思いました。峰の白雲谷の水、源(みなもと)が遠く、来てみれば、確かに玉鉾(たまほこ)の道中に桃が成っている林がありました。」

 と歌い出した声も澄んでいて、仏の国にあるという鳥の迦陵頻伽(がりょうびんが、仏教での想像上の生き物で、上半身が人、下半身が鳥の姿で、極楽浄土に住むとされている)とはこういうものかと、見る目にはあやしい舞の袖、かざす扇もひらひらと、閃く桃の花かんざしに、光が照り添う灯燭(ともしび)の、花や物が序破急(じょはきゅう)の節曲(せっきょく)が世に比べて類もなく、このような俳優は数少ないだろうと、常武夫婦、子供達は、瞬きもしないで見惚れていて、襖障子(ふすましょうじ)の向こうから、奴婢(ぬひ)等が何人も覗いていて、人を掻き分け、押し合いして、頭と頭を打ちあって、目に目を並べて、入念に見つめて時間を過ごしていた。こうして舞曲も終わりに近づくと、戸牧(とまき)は予て、婢児(おんなご)等に、申しつけていた纏頭(かつけもの、かつらや頭に巻く布のこと)と、小袖を一襲(ひとかさね)持ってこさせて、旦開野にとらせたところ、肩にうちかけて、横笛、鼓の婢児等の、先に立って退いていった。


(この3 ここまで)