南総里見八犬伝 三 第六輯第六巻第五十四回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

新潮日本古典集成別巻 三
南総里見八犬伝第六輯
巻之二

南総里見八犬伝 三 第六輯第六巻第五十四回 その3

 

 小文吾は常武が君命に託(かこつ)けて、自分を滞留させたのだと、既に心の中で悟ったので、慌てて争うこと無く、老僕の九念次に誘われて、離れ座敷に行ってみると、二間と九尺の数寄屋で、湯殿や厠もあった。その次の間は畳の上に敷いたばかりの三枚の布があり、夜物を納めていた戸棚があった。向こうの庭から数えると、曲演水盤(せんすいちょうずばち)へ水をまく様子は、夏ばかりなのだろう。四つ目垣(よつめがき:丸太の柱の間を竹で縦横に編んだ垣)に咲く萩が、時を知っているように、御影岩のそばの小松が影を作って、夕日の中で鳴くヒグラシは、どの梢にいるのだろうか。朝露に消える蛍は、あそこの草の中だろうか。水が涸れる時は、炉に百年も沸く釜があるという。倦むときは、庭は五十歩の広さがある。さすがに眺めることはできないが、惆悵(ちゅうちょう:恨み嘆くこと)の心の憂いは、どこにもやり逃がすことが出来ないでいた。ここは三方を築垣で囲まれ、南面に左右に開く折戸(諸折戸)があった。あるにはあるのだが、いつも閉ざしたままだった。そうこうしているうちに、楚囚(そしゅう、晋に捕らわれた楚の鐘儀が、楚国の冠をつけて祖国を忘れなかった故事から、囚人のこと)のようであり、旅籠はまるで獄舎のようである。これから後に、男児等が、三度の飯を持ってきて、さらに翁や下僕等がひと月に二日三日、庭の小草を刈り払い、落ち葉を掃除しに来るだけだったので、話をする相手にもならなかった。我が身には似ず、生憎、過ぎる月日は止めることは出来ず、小文吾はいつも苛立ち、憂苦に耐えられず、空を見上げて、

「どうすれば大禍津日神(おおまがつみのひのかみ)の神のイタズラだろうか、このように不安に考えてしまうのは。荒芽山(あらめやま)の厄難で分かれた四人の友の生死を、夢でも知ることはなく、預けられた二人の女人(おなご)の行方も、まったくわからなくなってしまった。故郷には親あり、甥がいて、親父は喜んでよいだろう、心配ない年齢で、甥は私と鳩車竹馬(幼なじみのこと)の年齢だ。これを思い出してみれば、我が身はここにあるが、心は四方に思い巡らせることができる。仏説では、火宅の煩悩、苦海の風波は、このような思いによるものだという。しかし、このような事は馬加大記(まくはりだいき)の嫉みが発端であり、虐げられているのだ。彼は奸曲(かんきょく、悪巧み)の小人である。誠となる大功には細謹(細かな誠に気を配ること)をよく考えもせず、大礼(たいれい、大切な儀式)には小譲(しょうじょう、誚譲、小さなことを咎める)をすぐに口にするというから、あの諸折戸を押し破って、出ていくのは簡単だが、今のところ鎖(とさし、錠のこと)は開かれていない。いつかは城門に出されるだろう。簡単に抑留されてしまえば、わざと辱めを重ねてしまうのと同じだ。さて、どうしようか」

と胸の中で考えていると、飛ぶ鳥の翼が無いのと同じ自分と重ねて、恨みには思うが、口には出さず、果てしなき籠(かご)に飼われて友を呼ぶ、雀色(すすめいろ、茶褐色)のような時が儚くなり、すでに夕暮れとなってしまった。

 こうして秋が過ぎ、冬枯れの季節となり、寂しい宿で年末を迎え、明ければ文明十年、春も三月になると、自分だけでなく、見る人も居ない庭の花が色付いて、とても美しく咲いていたが、あの掃除だけにくる下僕も常よりしばしばやって来て、日毎、草を刈っていった。その中で、品七(しなしち)という老僕だけが、小文吾を訪ねて慰め、木訥ながらの物言いで、誠実のようにみえたので、小文吾も亦隔(またへだ)てなく、その草刈りの休みの度に、煎茶を飲ませながら、世の中の事、今昔話を互いに語らうと、品七はとても喜んで、少しずつ親しみを重ねていくと、ある日、品七がひとり来て、日長のことだったので、昼餉が終わって、縁側に腰を掛けて休んでいた。小文吾はこれを労い、同じ様に縁側に出てくると、品七は何度か見返して、

「とても苦労をなされたようですね。普通、人の心はのんびりとしているのですが、浮かれるような花のない春に、顔色が病者のようで、痩せているようにもみえていますよ。確かにそうでしょう。予想もしない事態に関わり合って、旅行く人が引き止められ、閉じ込められてからすでに一年近くになっていて、とても痛ましく思う限りです。またどうしようもないことで、人は宿世の業によって、知者も勇士も、幸せなど無く、生涯頭(こうべ)を挙げることが出来ない者(下級階層に陥ったの者)など多くいます。最近ではこの武蔵の大塚に犬塚番作(いぬつかばんさく)という猛者が、家督を姉婿に横領(おうりょう)されて、憤りに耐えられなくて、腹を掻き切って死んだそうだ。そのひとり子も親に劣らない器量があると人はうわさしているが、どうなのかはよくは知らないが、今はその跡が絶えてしまったそうだ。このように知者でも勇士でも、時を得なければ埋もれて、人にも知られないままになってしまう。また人は、七転び八起きという諺にもあるように、年若く見えていても、たかだか一年三ヶ月間も囚人に等しく、自由になる日はわからないという。あまりに悲痛に思えば、命を縮めることになりますよ。自ら心を長閑に持って、厄が無くなるのを待ちなさい」

 と慰められて、小文吾は胸の内に騒ぐものを押し鎮め、

「言われたことはよくわかりました。私もまた、大塚親子の名だけは予てより聞いております。あなたは、その関係者でしょうか」

 と問われて品七は頭を振って、

「いや、関係者ではないが、大塚の里人に、糠助(ぬかすけ)という者がいたが、その者と私の先代が所縁(ゆかり)があるのです。彼が生きていた時は、互いに家を訪ねたもので、その時噂を聞いたのです。実に世の中の様々で、大声で話せない事ですが、ここの権門(きりもの)馬加(まくはり)殿は、とても恐ろしい人で、なすこと毎に苛立ち、謨謨(しあて、謀をめぐらすこと)を行い、国守までもが憚っているようでは、どのような宿世によるものなのでしょうか」

と言うと、小文吾は膝を進めて、

「その事の理由をお聞かせください。世の中は慎ましいことが良いとされていますが、私は他郷の者ですから、ここに咎める人はいませんから、聞いたとしても外に漏れることはありません。お願いします、教えてください」

と熱心に願うと、品七は、頭を掻きながら周囲を見回して、

「あなたはいつも言葉少なく、慎み深い人だと思うので、一つお話しましょう。この話を忘れたとしても聞きまわらないということを約束してください。それは享徳四年(1455年)の秋の頃、下総の千葉家が二流(ふたつ)に分かれて、合戦已むなしとなりました。この原因は、当君の故千葉介胤直主(もとのちばのすけたねなおぬし)は、弱冠だったので、千葉の一族である原越後介胤房(はらえちごのすけたねふさ)は、許我(こが)の御所足利成氏(なりうじ)朝臣に、従うように推薦した円城寺下野守尚任(ひさきたふ)は鎌倉の管領である山内顕定と扇谷定正に、こちらに従いなさいと諫めたところ、千葉胤直は園城寺尚任と議論をして、尚任が鎌倉の管領方になると、胤直はこれを深く憤り、足利成氏に加勢請い願ったが、千葉の馬加陸奥入道光輝と共に、軍兵数千を率いて、同国多胡(たこ)、志摩(しま)の二つの城を攻め潰したため、大将だった千葉胤直は切腹し、胤直の御父・前千葉介入道常瑞(さきのちばのすけにゅうどうじょうずい)、舎弟の中務入道了心も、等しく切腹した。これにより足利成氏の命令で陸奥入道光輝の嫡男馬加孝胤(たかたね)を千葉介に任命して、千葉城に据え置いた。また管領家としては、康正元年(1455年)の冬頃、千葉入道了心の嫡男実胤と二郎自胤(よりたね)を取り立てて、武蔵の石浜と赤塚の両城に据え置かれたため、千葉家はいよいよ二流(ふたつ)に分かれて、互いに長い間怨讐の鏃を磨いでいた。しばらくして近頃、千葉の支流である郎党の馬加記内常武(まくわりきないつねたけ)という者が現れて、馬加孝胤に仕えたのだが、何か陰謀があるのか行方をくらましたかと思うと、石浜殿(千葉実胤)の元に降参して、千葉家の為体(ていたらく)を継げて、奉公無二に立ち振る舞うと、実胤はこの者を採用して、遂に長臣(ちょうしん、幹部)となり、記内をあらためて大記として、栄えたそうです。」