内憂外患 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

「現在の我が国は内憂外患に晒されている」と仰る方も多いが、これはいつでも国家であるかぎり、当たり前の状態ではないだろうか。江戸期、三つの大きな改革があった。享保元年(1716年)に将軍徳川吉宗によって開始された「享保の改革」、天明七年(1787年)に老中松平定信が始めた「寛政の改革」、そして天保十二年(1841年)に老中水野忠邦によって始められた「天明の改革」である。試験にもよくでるから覚えている方も多いだろう。それらの特徴は先の2つの改革が藩政改革であり、天明だけが財政改革である。享保の改革は、改革前が元禄時代、改革後が田沼時代という明確に社会風土が分かれる。田沼氏自体は、藤姓足利氏の流れで、大坂の陣で紀州藩士となった家柄で、吉宗が紀州家から将軍家に移ってきたときに、一緒に上江した御家人である。

その田沼時代は飢饉や天災が数多く発生し、明和大火と呼ばれる大火事も起き、人心は政治から離れはじめたころ、天明の大飢饉が起きる。これによって一揆や打ち壊しといった民衆蜂起が発生し、田沼政府は、米(税収入の基本)以外から税収をとるようになる。結果的に幕府が貯蓄している豊富な米を切り崩しして、社会経済を回していき、幕府の財政が赤字に転落することを防いだ。しかし、すでに米の収益が高止まりになっていたため、鉱山や蝦夷地などの開発計画、有名な印旛沼、手賀沼の干拓によって耕地を増やすという試みがなされた。

しかし、民衆暴動の責任を取って田沼が辞任すると、松平定信が寛政の改革(1787年~1793年)に乗り出す。これは、田沼時代終焉から農業人口が140万人も減少し、天明の大飢饉による財政損失と、将軍家治の葬儀費用で100万両の赤字となる見込みになったからだ。このため、幕府の財政難の解消と社会構造の維持が急務となった。寛政の改革は、田沼時代の緊縮財政を継続させながら、「経世済民」の思想が行政側に根付き始めた。特に飢餓対策を重要視し、備荒貯蓄政策を推進した。農業人口の回復のために他国出稼制限、旧里帰農奨励といった令を発布した。さらに、米の中間搾取を禁じ、蔵納めを村々の直納とした。この時、児童手当も行っている。二人目の子供には金一両(約5万円)を支給した。これは後に二両(約10万円)となる。

松平定信は改革から六年後突如失脚する。将軍家斉(一橋家)との対立などが挙げられている。結果的に田沼時代の財政改革をなぞっただけで、幕府の財政は回復したため、庶民・農民への慰撫行政サービスが行きすぎた差配とみられたのだろう。しかし、定信の後は老中後任の松平信明によって、政策は継続されていく。

文化十四年(1817年)に松平信明が死亡すると、旧田沼派の水野忠成(ただあきら)が老中となる。将軍家斉の親任を得て、文政小判の改鋳を行い通貨発酵益を幕府にもたらす。結果としてデフレ不況から脱却し、好景気となった。こういう時は賄賂政治がはびこる。

これらのような内憂の中、外患とも呼ぶべき事件が起きる。主なものをあげると、文政七年(1824年)大津事件(水戸藩)、宝島事件(薩摩藩)、どちらも英国が相手である。宝島事件では死傷者が出ており薩摩藩の英国に対する怨恨はここから始まる。これに対して、幕府は文政8年(1825年)異国船打払令を発布して、各藩の海岸線の防御をするよう命令した。これは太平洋で盛んになった捕鯨の基地として、日本の領土に英国や米国が目を付けたからだ。さらに、文政十一年(1828年)シーボルトが伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」縮図を海外に持ち出そうとして、地図を渡した天文学者の高橋景保が投獄され、翌年獄死する。文政十三年(1831年)に欧米人5人と太平洋諸島出身者25名が小笠原諸島の父島に入植した。

天保期には内憂も発生する。天保八年(1837年)の大塩平八郎の乱である。大塩は大坂町奉行所の与力で、陽明学者であり、軍事警察のプロである。前年までに天保の大飢饉で各地で百姓一揆が発生していた。これを救済すべく大塩は奉行所へ訴えるが拒否され、彼は私財(およそ六百数十両;約4千万円)を民衆救済にあてた。そのような中で、徳川家慶の将軍就任儀式のための俵米が江戸へ運搬されようとし、豪商は利を求めて米を買いあさっていた。こういった武家の動きに怒った大塩は一揆鎮圧のために準備していた大砲などを、訓練された弟子達と共に、豪商らに天誅を加えると喧伝した。同時に大坂町奉行所の不正や汚職を江戸幕閣に送付した。決起を大阪奉行所に察知されたため、大塩は自宅に放火し、急ぎ決起した。大塩のグループから離反する者も出て、自らの建白書が江戸に届かない事実もあり、決起から半日で鎮圧されてしまった。幕府役人による武力蜂起という事件は幕府に重い傷を与えた。大塩の檄文は、様々な監視をかいくぐって、複写されて全国に伝えられた。越後国の生田万の乱、摂津国の能勢騒動は、この檄文に感化を受けた一揆である。また、大塩の乱は、京都朝廷に近い場所で起きたため、京都所司代から光格上皇と仁孝天皇に対して、事件報告がなされ、朝廷から各地の社に対して豊作祈願をするよう命じた。このときの費用を幕府が出している。ここで王家朝廷が幕府に対して強い立場を見せていることは、幕府権威が下がってしまったことを示している。その点でも大塩の乱は、大きな変化点だった。

家慶の将軍就任は、家斉の大御所への退隠で、大御所政治を行う構造となった。この時老中首座の水野忠邦が天保九年(1938年)に農村復興を目的とした施策について議論している。水野は1841年~1843年にかけて天保の改革を行う。その基本方針は、米経済の安定化である。収穫量の落ちた米収穫を確保するために、地方の米穀地域に都市部(大半が江戸)に出稼ぎに来ていた人々を戻す、人返令を試行した。これは農本思想と呼ばれ、天保の改革の根幹を成す考え方だ。また奢侈禁止として、贅沢を禁止した。これには大奥や大御所家斉の派閥に属する人々の反対を受けた。一方水戸藩主徳川斉昭は水野に賛同し、水戸藩は改革を講演する。天保十二年(1841年)に家斉が死ぬと、改革は大きく進行する。家慶により幕政改革が宣言され、江戸市中にも富国され、華美な祭礼、贅沢はことごとく禁止された。江戸町奉行の遠山景元、矢部定謙は厳格すぎる改革は逆効果であることを水野に進言するが、矢部が失脚すると目付の鳥居耀蔵を町奉行にスライドさせ、物価高騰の沈静化を図らせる。これは一大消費地である江戸で、しかも大奥で消費が低迷したため、インフレーションが発生したのだ。またこの頃は米価経済から商品経済(貨幣経済)にほぼ転換しており、米の収穫を上げても米の売価は低く、武家が手にする現金が目減りしていた。江戸初期から比べると米価は半分にも減少していたのだ。

このインフレと武家の借金返済に対応するため、問屋仲間の解散により中間搾取を無くし、没落旗本や御家人に低利貸付、返済免除を行った。また貨幣改鋳を行い、改鋳益を期待した。しかしインフレの時に貨幣改鋳を行うとさらなる高いインフレになった。さらに水野は上知令を出し、江戸や大坂周辺の大名、旗本の領地を幕府直轄地として幕府行政の強化と治安維持を図ったが、もちろん対象となる領地を持っていた大名や旗本の反発を招き、水野が失脚する原因となった。

天保年間に以下の人々が誕生している。すべて幕末に活躍した人達だ。

二年 孝明天皇(第121代天皇)
四年 木戸孝允(明治政府参議)
五年 江藤新平(初代司法卿)
六年 松方正義(第4・6代内閣総理大臣)、坂本龍馬 (海援隊隊長)、小松帯刀(薩摩藩家老)、天璋院篤姫 (第13代将軍徳川家定御台所)井上馨(元老)
八年 板垣退助(自由民権運動)、徳川慶喜(江戸幕府第15代将軍)
九年 大隈重信(第8・17代内閣総理大臣)、中岡慎太郎(陸援隊隊長)、山縣有朋(第3・9代内閣総理大臣)
十年高杉晋作(奇兵隊創設)
十一年 黒田清隆(第2代内閣総理大臣)、渋沢栄一(実業家)
十二年 伊藤博文(初代立憲政友会総裁、第1・5・7・10代内閣総理大臣)
十三年 大山巌(陸軍大将、元老)
十四年 西郷従道(海軍大将、元老)

さて、ここで長々と江戸の三大改革を見てきたが、本来は天保の改革を後援した水戸藩・徳川斉昭の藩政改革が、がこれまで幕府の改革の思想を一歩前に進めたもので、これを確かめたいと考えているからだ。

次回から、水戸藩での徳川斉昭の改革についてみていこう。