吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)十月 その1 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年
 十月小

  一日(庚辰・かのえたつ)
   甲斐国の源氏達が精兵を連れて競うように急いでやってくるという噂が駿河国に伝わってきた。そこで駿河国目代の橘遠茂(駿河国は平宗盛の知行国なので、遠茂は平家方)は遠江(とおとうみ)と駿河の両国衙の軍士を集めて、興津(東海道の要所、甲斐国と伊豆国の両方と隣接している)の辺りに陣を構えた。
   今日、石橋山の戦いで散り散りになった者達の多くが、源頼朝の鷺沼(現在の千葉県習志野市鷺沼)の宿所に集まってきた。まだ醍醐禅師全成(ぜんじょう)も同行し、
   「以仁王の令旨が下されたという事を京都で伝え聞き、密かに醍醐寺を抜け出て、修行の身を装って下向してきました」
   と言った。源頼朝は涙ながらに、その志に感謝したのだった。

  二日(辛巳・かのとみ)
   源頼朝は千葉常胤、上総広常等と一緒に太井川(現在の江戸川)、隅田川を渡り、との時の軍勢は三万騎あまりにも及んだ。武蔵国に着くと、豊島権守清元、葛西三郎清重達が、真っ先に参上してきた。また、安達右馬允(うまのじょう)遠元は、前もって源頼朝の命令を受けていたので、その迎えに参った。
   今日、源頼朝の乳母である故八田(はった)武者宗綱の息女(小山下野大掾政光の妻、寒河尼と号す)が特に、可愛がっている末子を連れて隅田宿に参上した。源頼朝はすぐに面会して、昔のことを話あった。寒河尼は連れてきた子息を源頼朝の側近として奉公させたいと望んだ。そこで、頼朝はこの子息を自ら元服させて、自分の烏帽子を取って与えた。この若武者は、小山七郎宗朝(父・小山政光、母・寒河尼、後に朝光に改名。さらに結城郡を所領し、結城氏を名乗り、鎌倉幕府の重臣となる)で今年十四歳である。

  三日(壬午・みずのえうま)
   千葉介常胤は、子息や郎従達に厳命を与えて上総国に派遣し、伊北(いほう)庄司常仲(伊南新介常景の息子)を追討させ、その仲間を尽く捕らえさせた。千葉太郎胤正が特に勲功を上げた。この伊北常仲は、長佐(長狭)六郎常伴の外甥なので殺された。

  四日(癸未・みずのとひつじ)
   畠山次郎重忠が長井の渡(現在の鎌倉市雪の下の辺り)で、源頼朝と面会した。河越太郎重頼と江戸太郎重長も参上した。彼らは三浦義明を討った者である。三浦義澄以下の子息や一族の多くが源頼朝に味方し、武功に励もうとしている。
   「江戸重長等は、源家に敵対した者であるが、この様な勢力も取り込まなければ、目的は達成できないだろう。そこで、忠に励み直心を持つのであれば、不満を決して残してはならない」
   と、源頼朝はあらかじめ三浦一党を説得しておいた。彼らは異心を抱かないことを誓ったので、互いに目を合わせて納得して、この面会の席に臨んだのだった。

  五日(甲申・きのえさる)
   源頼朝は武蔵国の国衙の様々が実務について、在庁官人や郡司らに申しつけて処理するよう、江戸太郎重長に命令した。

  六日(乙酉・きのととり)
   源頼朝は相模国に到着した。畠山次郎重忠が先陣をつとめ、千葉介常胤が頼朝の後ろに従って、その他従軍は数千万にも膨れあがった。突然のことなので、源頼朝の御所を建てていなかったため、民家を宿所にしたという。

  七日(丙戌・ひのえいぬ)
   まず、源頼朝は鶴岡八幡宮に参拝した。その後、左典厩源義朝(頼朝の父)の旧跡である亀谷(かめがやつ、現在の扇谷付近)を訪れた。その場所に邸宅を建てようとしたが、土地の形が広くなく、その上、岡崎四郎義実が源義朝の没後を弔うために寺院を建てていたため、止めたという。

  八日(丁亥・ひのとい)
   安達右馬允遠元は、日頃から様々な功労を重ねている上に、要求に応じて真っ先に参上している。そのため源頼朝は足立遠元が治めている郡郷を安堵すると言った。

  九日(戊子・つちのえね)
   大庭平太景義が担当して、源頼朝の邸宅工事が始められた。ただし、期日には間に合わせるのは難しいので、取り敢えず、知家事(ちけじ)兼道の山内(やまのうち)の家を点検して、その建物を移築することにした。この建物は正暦(しょうりゃく)年間に建てて以来、火災にあったことがない。安倍晴明朝臣が鎮宅の符を押したからである。

  十一日(庚寅・かのえとら)
   卯の刻に御台所北条政子が鎌倉に入り、大庭景義がお迎えした。昨夜、伊豆国阿岐戸(あきど)郷からすでに到着していたが、日柄が悪かったため、稲瀬川の民家に泊まったという。
   また、走湯山の住僧である専光坊良暹(せんこうぼうりょうせん)が、源頼朝とのかねてからの約束によって、鎌倉に到着した。良暹と源頼朝は長年にわたり祈祷の師と檀那の関係にある。

  十二日(辛卯・かのとう) 快晴
   源頼朝は寅の刻に先祖を崇めるため、小林郷(現在の鎌倉市雪ノ下付近)の北山に宮廟を建てて、鶴岡八幡宮をこの場所に移し、奉った。専光坊良暹をしばらく八幡宮寺の別当とし、大庭景義がその他の諸事を執り行うことにした。八幡宮が鎮座する場所を新旧どちらにするのか、その判断について、源頼朝は決心がつなかなったので、潔斎(けっさい、飲食を断ち身を清めること)し、神前で自ら鬮(くじ、籤のこと)を選り取って、場所を小林郷に定めた。しかし、まだ立派な造りにすることができていないため、まず簡素な社を建てた。もとの社は後冷泉院の時期に、伊予守源朝臣頼義が勅命で安倍貞任(さだとう)を征伐した際に、懇ろの祈願を行うため、康平六年秋八月に密かに石清水八幡宮を勧請(かんじょう、神仏を分霊すること)して、瑞籬(みずがき、神社仏閣をとりまく美しい垣根のこと)を相模国由比郷に建立した(これを下若宮と呼ぶ)。永保元年二月には、陸奥守源朝臣義家が、社を修復し、そして今回源頼朝が小林郷に移して、簡素な供物を捧げた。

  十三日(壬辰・みずのえたつ)
   木曽冠者源義仲が、亡き父・義賢王のあとに倣って、信濃国を出て上野国に入った。すると住人が次第に従うようになってきたので、足利俊綱(藤氏足利氏第4代当主)からの妨げがあっても、恐れることはない、と従うように命じた。
   また、甲斐源氏と北条時政・義時は、駿河国に到着し、今日の暮れに大石駅(現在の富士宮市上条村付近)に宿泊した。戌の刻に、駿河国目代橘遠茂が長田(おさだ)入道の計略で富士野を回って襲来するとの報せがあった。その途中で迎え撃って合戦すべきであると、軍議で決定した。武田太郎信義、一条次郎忠頼、板垣三郎兼頼、武田兵衛尉有義、安田三郎義定、逸見冠者光長、河内(こうち)五郎義長、伊沢五郎信光らが、富士北嶺の若彦路(わかひこじ、甲斐古路の一つ。甲府石和から河口湖畔を抜けて、富士山の西の山麓を辿って駿河国吉原に至る路)を越えた。加藤太光員、加藤藤次信廉は、石橋山の合戦後に、甲斐国の方へ逃れていたが、今回、これらの人々と合流して駿河に向かった。

  十四日(癸巳・みずのとみ)
   午の刻に、武田・安田の人々が神野(かみの、現在の富士宮市内野字上野[かみの]付近)と春田路(未詳)を通って、鉢田(未詳、波志太山とは異なる)の辺りに集まった。駿河国目代橘遠茂は大軍を率いて甲州に向かっていたところ、不意にこの場所で武田・安田軍に遭遇した。この一帯は山嶺が連なり、道を大きな岩が遮っているため、前に進みにくく、後ろにも退きにく。しかし伊沢信光は加藤景廉らと共に先頭を進み、兵法を尽くして奮って攻め戦ったので
橘遠茂軍はしばらく防衛していたが、ついに長田入道の子息二人の首が取られ、橘遠茂は生け捕られてしまった。戦って落命し、負傷した者は数知れず、後方で戦おうとしていた者達は、矢を発することもできず、ことごとく逃亡していった。酉の刻に、首を富士野の伊堤(いで、現在の富士宮市上井出付近)辺りに晒したのだった。

  十五日(甲午・きのえうま)
   源頼朝が初めて鎌倉の邸宅に入った。この邸宅は大庭景義が修理を担当していた。

  十六日(乙未・きのとひつじ)
   源頼朝の御願で、鶴岡若宮において、長日勤行(ちょうじつごんぎょう)が始められた。法華・仁王・最勝王経の鎮護国家の三部妙典のほか、大般若経・観世音経・薬師経・寿命経等が読経された。供僧が奉仕し、相模国桑原郷を供僧の費用に充てる所領とした。
   また、今日は源頼朝が駿河国に向かった出発した。これは、平氏の大将軍小松少将平惟盛(これもり)朝臣が数万騎の軍勢を率いて、去る十三日に駿河国手越駅(現在の静岡市駿河区手越)に到着した、と報告があったためである。今夜、相模国府六所宮に到着し、そこで相模国早河庄を箱根権現に寄進した。その下文には自筆で書状を添えて、雑色鶴太郎を遣わして、箱根の別当行実のもとに送った。その書状には、
   「忠節を尽くしてくれていることは、前々から知っているので、疎かにすることはありません。とくに心を込めて祈祷してほしい」
   という内容で或。下文は以下の通りである。

     箱根権現に御神領を寄進する事。
      箱根国早河本庄
       早く箱根別当が管轄して支配すべき事。
     右の早河本庄は、前兵衛佐(さきのひょうえのすけ)源頼朝の計らいで、寄進するものである。他人の妨げがあってはならない。後日の証拠のために文書に書き表し、このとおり申す。
     治承四年十月十六日

  十七日(丙申・ひのえさる)
   源頼朝が波多野右馬允義常を誅伐するために、軍士を遣わしたところ、波多野義常はこの事をきき、討ってである、下河辺(しもこうべ)庄司行平が到着する前に、松田郷で自害した。波多野義常の子息である、波多野有常は、大庭景義の元にいて、この禍から逃れていた。波多野義常の乳母は中宮大夫進(ちゅうぐうのたゆうのしん)源朝長の母(その子は、典膳大夫中原久経)である。そのため父の波多野義通は妹の関係で、はじめは左典厩(さてんゆう)源義朝に仕えたが、不和となり、去る保元三年の春頃、突然京都を去って、波多野郷に住んでいたという。