吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)九月 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年
 九月大

  十三日(壬戌・みずのえいぬ)
   源頼朝一行は安房国を出て上総国に向かった。従う軍兵は三百余騎にもなった。しかし、上総広常は武士を集めているため、しばらく遅れて参上することを伝えてきた。今日、千葉介常胤が子息と親類を伴って源家に味方しようとした。東(とう)六郎大夫胤頼(千葉常胤の六男、東氏、遠藤氏の祖)が父・常胤に次の様に言った。
   「当国の目代は平家方です。我々一族がすべて国を出て源家に味方すれば、必ず妨害してくるでしょう。まず目代を誅殺すべきです」
   これを聞いて、千葉常胤は、すぐに目代を追討せよと命じた。そこで東胤頼と甥の千葉小太郎成胤は、郎従等を率いて、競って目代を襲撃した。目代は、もともと勢力を準備しており、数十人で防戦した。この時、北風が激しく吹いて、千葉成胤は僕従等に目代の館の裏側から放火させた。家屋は焼失し、目代は火を逃れようとして、防戦もままならず、この間に東胤頼が、目代の首を刎(は)ねた。

ーーー訳者注:ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   ここは下総国での出来事で、平安末期の下総国の国司は、次の記事に出てくる藤原親政の祖父・藤原親通であることがわかっている。その時の目代が紀季経(きのすえつね)だった。藤原親通が千葉常重(千葉常胤の父)が所領していた相馬御厨と立花荘を強奪し、国司・目代と千葉氏は対立していた。藤原親通の息子・藤原親盛は、下総国に在官し、長男の藤原親政の室に平忠盛の娘を迎え、娘を平忠盛の孫・重盛の室とするなど、平家と姻戚関係を通じて、基盤の強固化を図っていた。下総国では刃向かう者が現れないと思われた平家ー藤家勢力だが、千葉氏が源頼朝に味方することで、勢力のバランスが崩れていく。
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  十四日(癸亥・みずのとい)
   下総国千田庄(ちだのしょう)の領家である(皇嘉門院)判官代・藤原親政は、刑部卿・平忠盛朝臣の娘婿である。平相国禅閤(しょうこくぜんこう)清盛と志を通わせていたので、目代が殺されたことを聞き、軍兵を率いて千葉常胤を襲撃しようとした。しかし、千葉常胤の孫である千葉小太郎成胤の活躍によって、逆に藤原親政は生け捕りにされた。

  十五日(甲子・きのえね)
   武田太郎信義、一条次郎忠頼以下は、信濃国の対抗勢力を討伐でき、昨夜甲斐国に戻り、逸見(へみ)山に宿泊した。そして今日、北条時政がそこに到着した。源頼朝から命じらえた趣旨を武田信義と一条忠頼等に伝えたのだった。

  十七日(丙寅・ひのえとら)
   上総広常が到着するのを待たず、源頼朝は下総国に向かった。千葉介常胤は、子息の太郎胤正・(相馬)次郎師常・(武石)三郎胤成・(大須賀)四郎胤信・(国分)五郎胤通・(東)六郎大夫胤頼、嫡孫小太郎成胤等を伴って、下総の国府に入り合流した。従う軍勢は三百余騎にもなった。
   千葉常胤は、まず捕虜とした千田判官代親政を源頼朝に見せた。その後食事となった。源頼朝は、千葉常胤をそばに招いて、
   「これからは司馬(国司の三等官・掾の唐名)常胤を父のように遇したい」
   と言った。千葉常胤は一人の若者を伴って、御前に進んで次のように言った。
   「この者を用いてください。本日の贈り物です」
   この若者は、陸奥六郎源義隆の息子で、毛利冠者頼隆だった。紺の村濃(むらご・斑な濃淡模様)の鎧直垂を着て、小具足(こぐそく)を身につけ、千葉常胤の横に控えていた。その様子を源頼朝は見ると、まことに源氏の血筋の者だとわかった。これに感じ入って、すぐに千葉常胤の上の座に若武者を招いた。父の義隆は、去る平治元年十二月、比叡山の竜華越(りゅうげごえ)で故・源左典厩義朝のために戦って、落命した。この時、毛利頼隆は生まれてからわずかに五十日程度だったが、その後義朝の縁坐に処せられて、永暦元年二月に、千葉常胤に命じて下総国に配流されていたのだった。

  十九日(戊辰・つちのえたつ)
   上総権介広常は、下図鎖国の周東、周西、伊南、伊北、庁南、庁北の者達を率いて、軍勢二万騎で隅田河の辺りに参上した。源頼朝は、上総広常の遅参にとても怒り、全く許す様子がなかった。上総広常は密かに、今日本国中すべて平相国禅閤清盛の支配下にあり、源頼朝は満足に用意もしないまま、流人の身で挙兵したので、その形勢では、高みに登る手段がないから、内心は離反するつもりだが、ここでは外面は帰服したようにしようと考えていた。そこで、この数万の軍勢が集まったのを見て、さぞや喜ぶであろうと思っていたところ、遅参を咎められてしまった。これこそ人の上に立つ人物に相応しいと思い直し、上総広常は源頼朝をすぐに殺害しようとしていた心を改めて、進んで従ったのだった。

ーーー訳者注:ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   この十九日の上総広常の内心は、内心だけに吾妻鏡の脚色である。もともと源頼朝が安房国に渡ったのは、三浦氏の引導によるもので、三浦氏は房総半島にも領地を持ち、古くから上総氏との交流もあり、親王国上総の国司に等しい、上総広常を頼ったのは、計略の一つだった。上総広常自身は平治の乱で、源頼朝の兄、源義平(源義朝の嫡男)に従って戦い抜いている。敗戦後領地に戻った。その後、家督争いが続き、この源頼朝の挙兵の頃まで続いている。一方で、平家の家人・伊藤忠清が上総介に任じられて、国務を巡って上総広常と伊藤忠清が対立しており、下総(上総氏の領地)では、平家の姻戚である藤原親政が勢力を伸ばそうとしている、といった状況下で、上総広常は源頼朝に味方する。遅れた理由は、家督争いの中二万の軍勢を集めるのに手間取ったのと、出陣した後の上総家を盤石にするために時間がかかったためである。以上の理由から、上総広常が平家に味方するということは考えられない。
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   陸奥鎮守府前将軍従五位下平朝臣良将(よしまさ)の息子・将門(まさかど)が東国を不当占拠し、反逆を企てた時、藤原秀衡(ひでひら)が、偽って味方すると、将門の陣に入ったところ、平将門はうれしさのあまり、櫛でとかしていた髪を結うことなく、そのまま烏帽子に入れて、藤原秀衡と対面した。秀衡は将門の軽々しい所作を見て、これは討伐した方が良いと決心して、退出した後、平将門の首を取った。

ーーー訳者注:ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
   ここで突然、平将門と藤原秀衡の逸話が記載されているが。これは平将門と源頼朝を比較して、将門はうれしさのあまり礼儀を忘れて対面したが、頼朝の方は遅参を厳しく叱り、軍律を重んじた、という対比を描いている。逆に言うと、源頼朝がよろこんで上総広常を無礼に迎えれば、広常は頼朝を軽んじただろうということになる。軍勢の数だけでも比較にならないし、なにしろ頼朝の兄・義平に仕えた大人物なのだ。
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  二十日(己巳・つちのとみ)
   土屋三郎宗遠が源頼朝の使者として甲斐国に向かった。それは、安房・上総・下総の三カ国の軍兵が源頼朝の元に集まった。それに加えて、上野・下野・武蔵などの国々の精鋭を率いて駿河国に向かい、平家軍の来陣を待ち受けるため、すぐに北条時政の案内で、黄瀬河(きせがわ)の辺りに来るようにと武田太郎信義をはじめとする源氏達に伝えるためだった。

  二十二日(辛未・かのとひつじ)
   左近少将平惟盛(たいらのこれもり)が源家を襲撃しようと東国に出陣しようとしたので、摂政家近衛基通が、伝令として御厩案主兵衛志(みうまやのあんじゅひょうえのさかん)清方がなり、羽林平維盛がこの御使を出迎え、乗ってきた馬を受け取った。去る嘉承二年十二月十九日、平維盛の高祖父・平正盛朝臣(当時因幡守)が宣旨を受けて、対馬守源義親(源義家の次男、対馬守在任中に乱行があり、隠岐に配流。しかし出雲に戻り、そこでまた乱行騒ぎがあった)を追討するため出陣した日、藤原忠実の元に参上し、暇乞いをして退出した後、藤原忠実から平正盛に馬が送られた。この時の御使は御厩案主兵衛志為貞だった。この討伐に向かう古例に倣い、近衛基通がこのようにしたのだろう。

  二十四日(癸酉・みずのととり)
   北条時政と甲斐国の源氏等は、逸見山を退いて、石和御厨(いさわみくりや)に到り、宿営していたところ、今日の子の刻に土屋宗遠が到着し、源頼朝の命令を伝えた。そこで武田太郎信義・一条二郎忠頼をはじめとする者達が集まり、駿河国で合流しようと皆で評議した。

  二十八日(丁丑・ひのとうし)
   源頼朝は御使を送り、江戸太郎重長を呼び寄せ、次の様に伝えた。
   「大庭景親の催促を受けて、石橋山で合戦したのはやむを得ないことだが、以仁王の令旨の通り、源頼朝に従うように。畠山重能、小山田有重が、折しも在京しており、武蔵国では現在は、あなたが棟梁である。とても頼りにしているので、近辺の武士達を率いて参上するように」。

  二十九日(戊寅・つちのえとら)
   源頼朝の軍兵は、現在二万七千余騎である。甲斐国の源氏と常陸、下野、上野の者が加われば、おそらく五万騎に及ぶだろう。しかし、江戸太郎重長は、大庭景親に味方したく、今になっても参上しないので、試みに昨日御書を遣わした。やはり、江戸重長を追討したほうが良いと評議があった。中四郎惟重を葛西三郎清重の所に遣わして、大井の要害で会いたいと謀って、江戸重長を誘い出し、討ち取るように命じた。江戸詩と葛西氏は同族であるが、葛西清重は二心を抱いていないので、この様に命じた。
   また、佐那田(さなだ)余一義忠の母の所に特別に使いを使わした。これは亡き佐那田義忠が石橋合戦の時、命を懸けて源頼朝に仕えたことに、とくに感じ入ったためである。佐那田義忠の息子らは、佐那田の所領にいた。しかし、大庭景親をはじめとする相模、伊豆両国の敵は、源家に仇をなすために、きっと彼らを殺害するだろうと考えて、身の安全を図るため、すぐに今居る下総国に送り届けるように、源頼朝は命じたのだった。
   今日、小松少将平維盛が関東に向けて出陣した。薩摩守平忠度(ただのり)、参河守(みかわのかみ)平知度(とものり)らがこれに従った。これは石橋合戦の事を大庭景親が、八月二十八日に出した飛脚が九月二日に入洛し、その後審議がなされての、出陣だった。

  三十日(己卯・つちのとう)
   新田大炊助(おおいいのすけ)源義重入道(法名上西)は東国の武士が一致団結して挙兵する前に、故陸奥守源義家の嫡孫であることから、自立する気持ちがあり、源頼朝の御書に対して返事をしなかった。上野国の寺尾城(現在の群馬県高崎市寺尾町付近という説あり)に立て籠もり、軍兵を集めていた。また足利太郎俊綱(藤姓足利氏)は平家方として上野国の府中(国衙のある辺り)の民家を焼き払った。この民家には源家に属する者達が住んでいたからである。