吾妻鏡抄 第一 治承四年(1180年)十月 その2 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

治承四年
 十月小

  十八日(丁酉)
   大庭三郎景親は平家の陣に加わるために、一千騎の兵を連れて出発しようとしたところ、源頼朝が二十万騎の軍を率いて足柄を超えてきたので、大庭景親は先に進めなくなり、河村山に逃亡した。
   今日、伊豆山の専当(せんとう、下級の僧侶で雑事を担当する)の僧が衆徒の訴状を捧げて道中に来て訴えた。
   「戦のために軍兵達が伊豆山の結界の地を往来して、狼藉が絶えません。なんとかして下さい」
   そこで、源頼朝は諸人の乱暴をやめさせるように御書を以下の様に下して、伊豆山の衆徒をなだめた。

     謹んで走湯山大衆の訴状の旨を承った。
      早く彼の山における狼藉等を止め、喜んで御祈祷を行うという事。
     右について、祈祷を行わせたところ、仏法の力はすでに成就した。
     これはただひたすらに伊豆山権現の御利益を仰いだからである。
     狼藉があってはならない。
     伊豆山は以仁王と源頼朝の御祈祷場所であるから、悪行をなす連中は伊豆山に乱入してはならない。
     特に命令を伝える所である。
      治承四年十月十八日

   源頼朝は晩になって、黄瀬河に到着した。来たる二十四日を合戦の日と定めた。そうしていたところ、甲斐源氏、信濃源氏、北条時政が二万騎の軍勢を率いて、あらかじめ約束していた場所で、源頼朝軍と合流した。源頼朝が面会すると、各々はまず諏訪上宮大祝篤光(おおほうりのとくみつ)の夢によって、平氏方の管冠者(すがのかじゃ)達を討って、田園を諏訪の上下社に寄進したという事を話した。この寄進に関しては、かねてからの源頼朝の意志に叶うものだったので、この事に感謝した。次に駿河国目代橘遠茂との合戦について、目代の郎党で生け捕った十八人を召して、検分した。また同じ駿河国目代との合戦中に、加藤太光員が橘遠茂を討ち取り、遠茂の郎党一人を生け捕ったこと、加藤次景廉が橘遠茂の郎党二人を討ち取り、一人を生け捕ったことを報告した。また、工藤庄司景光は、波志太(はしだ)山で俣野(またの)景久と合戦し、忠節を尽くして戦ったことを報告した。源頼朝は皆に恩賞を与えると言った。この時、大庭景親に味方して源氏に矢を射かけた者達は、後悔し驚愕したという。それから荻野五郎俊重、曽我太郎祐信らは手をついて従属する意志を示した。夜になり、土肥実平、土屋宗遠等が源頼朝に盃酒(はいしゅ)を献上した(酒宴で盃を回した)。北条時政・義時いか伊豆・相模の人々は、それぞれ馬と直垂(ひたたれ)を源頼朝から賜った。その後、土肥実平を使者として。松田御亭(まつだのごてい、故中宮大夫進源朝長の旧宅)を修理するように、中村庄司宗平に命令した。

  十九日(戊戌・つちのえいぬ)
   伊東次郎祐親法師は小松羽林平惟盛(こまつのうりん、たいらのこれもり)の味方につくために、伊豆国鯉名泊(こいなのとまり)に船を浮かべ、海上を航行しようとしたところ、天野藤内遠景がこれを見付けて生け捕りにし、今日黄瀬河の源頼朝の宿所に伊東祐親を連れて参上した。しかし、伊東祐親の婿(むこ)である三浦次郎義澄が源頼朝に面会し、伊東祐親の身柄を預けて欲しいと言ったので、罪名が決まるまで、三浦義澄に預けるよう源頼朝は命じた。
   以前、伊東祐親は源頼朝を殺害しようとしたが、伊東祐親の次男である伊東九郎祐清(吾妻鏡では祐泰、源頼朝の乳母・比企尼の三女が妻)が報せてきたので、源頼朝はこの難を逃れることができた。その功を称えて褒賞を伊東祐清に与えようとしたところ、
   「父は既に怨敵(おんてき)として囚人となっています。その子である私がどうして恩賞を受けることができましょうか。速やかに暇をいただきたい」
   と言って、平氏に味方するために上洛したという。世の人々はこれを美談と評した。

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   伊東祐清が平家軍に合流するため上洛した後、建久四年(1193年)六月一日(吾妻鏡)に北陸道での合戦で落命する。平家物語では寿永二年(1183年)六月一日、倶利伽羅峠の戦いで敗北した、平維盛(惟盛)が率いる平家軍が京へと北陸道を上っている最中、加賀国篠原で源義仲軍と遭遇して起きた合戦を篠原合戦と呼ぶが、ここで伊東九郎祐氏が討ち死にしたと書かれている。この「祐氏」は「祐清」のことで、吾妻鏡が「祐泰」と書いている「祐清」である。
   吾妻鏡と平家物語では伊東祐清の死が10年も隔たりがある。
   さらに不思議な事に、吾妻鏡の養和二年(1182年)2月15日の記録では、伊東祐親が自害した際に、伊東祐清が源頼朝に心ならずも誅殺したとある。同じ史記の中で同一人物の死に関する記述が矛盾している。
   また、伊東祐清の妻(比企尼の三女)は義兄・河津祐泰が工藤祐経の郎従に討たれた後、生まれた直後の河津祐泰の子(曾我兄弟の弟・箱王、曽我五郎時政)を引き取って、伊東祐清の死後、平賀義信に再嫁している。曾我兄弟の仇討ちは、曾我時政が20歳、兄の曾我十郎祐成(幼名一万)が22歳の時に、起きた事件である。因縁の発端は、伊東祐親暗殺を工藤祐経が画策し、郎従が発した矢が、伊東祐親ではなく誤って河津祐泰に中り落命した事にある。一万の母は横山時重の娘で、夫・河津祐泰の死後、曾我祐信と再婚したため、子等は曾我性を名乗る。箱王は先に述べたように河津祐泰の実弟・祐清の妻が引き取り、平賀義信の養子となり、出家した。曾我兄弟の仇討ちの後、兄に連座して鎌倉へ連行され、その後自殺している。曾我兄弟の異母兄弟である原小次郎もこの仇討ち事件に連座して処刑されている。後で詳細に触れるが、源頼朝の異母兄・源範頼(みなもとののりより)が、曾我兄弟仇討ち事件の報で、源頼朝が討たれる、という誤報が伝わると、源範頼に謀反の嫌疑がかかり失脚する。この時、原小次郎が源範頼の郎党だったと考えられている。
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   その後、加々美(加賀美)次郎長清(甲斐源氏)が到着した。
   「去る八月上旬に京を出て、道中で病になり、ひと、ふた月ばかり美濃国神地(かみづち、現在の岐阜県美濃市)の辺りで休んでいました。九月になって養生しながら甲斐国に戻ったところ、一族が皆、参上すると聞き、鞭を揚げて来ました。兄の秋山太郎光朝は、今も在京しています」
   と加々美長清が言った。加々美長清は、兄弟そろって平知盛(たいらのとももり)に仕えて京都にいた。その後、八月以降、関東に向かいたいと考えていた。そこで老母の病にかこつけて、暇乞いをしたが許されなかった。その頃、高橋判官盛綱(越中前司盛俊の子か)に鷹装束について呼ばれることがあり、そこで世間話をした。この機会を活かして、下向を許されない愚痴をこぼした。高橋盛綱はこれを聞いて、持仏堂に向かって手を合わせ、とても恥じに思い、
   「当家の運は今この時に終わってしまうのだろうか。源氏の人々を家礼(けらい、家来の本表記)することさえ恐れ多い事なのに、ましてや抑留するという事は、家人(けにん、一族の家に仕える人)を召し使うような仕打ちだ。すぐに私が書状を送ろう」
   と言って、平知盛に次の様な書状を送った。
   「加々美の下向に関しては、すぐにきちんと命じるべきです」
   これを受け取った平知盛は、高橋盛綱の書状の裏に返事を書いて送り返してきた。
   「加々美が甲州に下向する事はすでに、平清盛の耳に入れています。ただし反乱が続発しているこの時期荷遠くへ行くのは、私たち(訳者注:吾妻鏡では「本意」と表記。平家一門、京都警護、朝廷や王家を含めた集団の意図という意味にとらえた)の意志に背く事になります。急いで京都に帰って来るように伝えよ、とのお考えです」
   という返事だった。

  二十日(己亥・つちのとい)
   源頼朝が駿河国賀島(かじま、現在の静岡県富士市、富士川と潤井川の間)に到着した。また左少将平惟盛、薩摩守平忠度(ただのり)、三河守平知度(とものり)らが富士川の西側に陣を張った。そこで夜半の頃に、武田太郎信義が計略によって密かに平氏陣の背後を襲おうとしたところ、富士沼に集まっていた水鳥の一群が飛び立った。その羽音はまるで軍勢が攻めてくる音のように思えて、平氏の軍兵は驚き慌てた。ここで平氏方の次将上総介藤原忠清らが次の様に言った。
   「東国の士卒はみな頼朝に味方しています。私たちは迂闊にも京都を出発して、すでに包囲から脱出できなくなっています。急いで京都に戻り、他の計略をたてるべきです」
   羽林平惟盛以下の平氏軍は、その言葉に従って、夜が明けるのを待たずに、京都に帰ってしまった。その時、飯田五郎家義、その息子の太郎達が富士川を渡り、平氏の従軍を追いかけたので、伊勢国住人伊藤武者次郎が、引き返してきて合戦となり飯田太郎がすぐに討ち取られたが、飯田家義は伊藤次郎を返り討ちにした。印東次郎常義(下総国印旛郡印東荘、この地の領主は上総広常[源頼朝の味方]の父・平常澄の子・常茂[上総広常の兄]が印東次郎を名乗っていることから、常茂の近縁者と考えらる。上総氏一族内でも平氏方と源氏方に分裂していたことがわかる)で、その子は鮫島で殺された。

  二十一日(庚子・かのえね)
   小松羽林平惟盛を追いかけるために、源頼朝は軍を上洛させるよう命じた。しかし、千葉常胤、三浦義澄、上総広常達が源頼朝を諫めて言った。
   「常陸国の佐竹太郎義政と佐竹冠者秀義等が数百の軍兵を集め、いまだ服従していません。特に佐竹秀義の父・佐竹四郎隆義は、平家に従って在京しています。その他にも自ら武に驕る者が東国にはまだ多くいます。そのような状況ですので、まず東国を平定してから、西国に向かうべきです」
   源頼朝はこの意見に従い、黄瀬河に戻って宿として、安田三郎義定を守護として遠江国に遣わし、武田太郎信義を駿河国に置いた。
   今日、若者が一人御宿所の辺りにたたずんでいた。鎌倉殿源頼朝に会いたいというのを、土肥実平、土肥宗遠、岡崎義実達は怪しんで、取り次ぎをしないまましばらく経った頃、源頼朝がこの事を聞いて、
   「年頃を考えると、奥州の九郎源義経ではないだろうか、すぐに対面しよう」
   と言った。そこで土肥実平が取り次ぐと、やはりその若者は源義経だった。すぐに頼朝と対面し、互いにこれまでの事を語り合い、懐かしさに涙を流した。白河天皇の御代・永保三年九月、曽祖父・陸奥守源朝臣義家が欧州で将軍清原三郎武衡(たけひら)、清原四郎家衡らと合戦した後三年の役の時に、左兵衛尉(さひょうえのじょう)源義光は京都で仕えていたのだが、この合戦を伝え聞いて、当時ついていた朝廷警護の官職を辞して、弦袋を解いて殿上に置き、密かに奥州に向かって、兄(源義家)の軍に加わり、たちまち敵を撃ち破ってしまった。今回源義経が現れたのは、その吉例に叶うものだと、源頼朝は感激していたのだった。
   源義経は、去る平治二年正月には、まだ襁褓(むつき、おむつのこと)の内にいた。父(源義朝)の死によって、継父の一条大蔵卿長成に保護されて、出家するために鞍馬山に入った。成人する年となってから、しきりに仇討ちの気持ちを抱くようになり、みずから元服し、藤原秀衡の巨大な勢力の世話になり、今まで多くの歳月が流れた。しかし今回、源頼朝が宿望を遂げようとしているのを聞いて、出発したところ、藤原秀衡が強く止めたので、密かに秀衡の館を抜け出してきたのだった。藤原秀衡は引き止める手段を失い、源義経に、佐藤継信と佐藤忠信の兄弟を付き人として従わせた。
   夕方になって源頼朝は湯浴みした後、三島社を参詣した。祈願がすでに成就した事は、ひとえに明神の冥助によるものだと感謝し、その信仰心から、伊豆国内から神領を寄進した。すぐに源頼朝は社殿の前で寄進状を書いたが、次の様な文面だった。
   
   伊豆国御園(みその)・川原谷(かわはらがや)・長崎
    早く三島大明神の神領として年貢を免除すべきこと
   右、これらの御園は、御祈祷のため、年貢を免除し寄進するところである
     治承四年十月二十一日
    源朝臣(頼朝)

  二十二日(辛丑・かのとうし)
   飯田五郎家義が平氏家人の伊藤武者次郎の首を持参して、合戦の経過や息子の太郎が討ち死にした事を報告する際に、
   「昨日は三島社へ参詣されたため、参上しませんでした」
   と言った。源頼朝はこれに感心して、飯田家義に、次の様に言った。
   「本朝(我が国のこと)無双の勇士である。石橋では大庭景親と一緒だったが、隠れていた私を逃してくれて、今回このような勲功をあげた。後々までこれほどの活躍はないだろう」。
   これに異論を唱える者は無かったという。

  二十三日(壬寅・みずのえとら)
   源頼朝は相模国府に到着し、初めて勲功恩賞を行った。北条時政、武田信義、安田義定、千葉常胤、三浦義澄、上総広常、和田義盛、土肥実平、安達盛長、土屋宗遠、岡崎義実、狩野親光、佐々木定綱、佐々木経高、佐々木盛綱、佐々木高綱、工藤景光、天野遠景、大庭景義、工藤祐茂、市河行房、加藤景員入道、宇佐美実政、大見家秀、飯田家義、これらの者は本領を安堵されたり、新恩(新しい領地)を給与されたりした。
   また、三浦義澄は三浦介に、下河辺行平は元通り下河辺庄司に命じられた。
   大庭三郎景親は遂に捕縛され相模国府に連れられてきた。そこで上総権介広常を呼んで、身柄を預けた。長尾新五為宗は岡崎四郎義実に、長尾新六郎定景は三浦義澄にそれぞれ身柄を預けた。河村三郎義秀は河村郷を収公(しゅうこう、没収のこと)され、大庭景義に預けられた。また滝口三郎山内首藤経俊は山内庄を取り上げられ、土肥実平に預けられた。この他に石橋合戦に関係する残党が数人いたが、処刑されたのは、わずか十分の一程度だった。

  二十五日(甲辰・きのえたつ)
   源頼朝が松田御亭に入った。これは中村庄司宗平が、命令をうけて日頃修理を加えていたもので、侍所(さむらいどころ、貴人に仕える者を侍と呼び、その待機所)が二十五間もある茅葺きの建物だった。

  二十六日(乙巳・きのとみ)
   大庭平太景義が身柄を預かっている囚人・河村三郎義秀の斬罪を行うよう、命じた。今日、固瀬河(かたせがわ、現在の片瀬川)の辺りで大庭景親の首がさらされた。弟の俣野五郎景久は、それでもなお平家に味方しようと思い、密かに上洛した。

  二十七日(丙午・ひのえうま)
   源頼朝は常陸国に向けて出発した。これは佐竹冠者秀義を討伐するためである。今日は五衰日(御衰日、ごすいにち、陰陽道で慎むべき日)という悪い日なので、人々が不思議に思ったが、
   「去る四月二十七日に以仁王の令旨が到着したことから、東国を支配することになっているから、日柄を気にすることはない。むしろ追討を行うことについては、二十七日であるほうがよい」
   と源頼朝は説明した。