このとき山下定包は二日酔いがまだ醒めず、奥座敷を出たのだが女の童(わらべ)だけを左右にはべらせて、御簾(みす)を半分に巻き上げて、柱にもたれかかって、暇つぶしに尺八を吹いたりして、戦のことは頭にないようだった。そのところに、岩熊鈍平が妻立戸五郎を先に歩かせて、「事件でございます」と叫びながら、部屋の障子を開け放って、主人の近くに来ると、後から岩熊に従った兵士数十人が身軽な鎧をつけて短弓を持って、少し遅れて隣の部屋の花鳥画がかかれた屏風の裏に隠れて、奥座敷に神経を配って控えた。
定包は、鈍平があわただしく来るのを見て、尺八で遊ぶのをやめて、
「いったい、どうしたのだ」
と聞いたとたんに、岩熊、妻立の両人が同時に声を上げて、
「積悪の家余殃あり(積もり積もった悪事は、かならず子孫へ悪い報いが訪れる)と言いますように、城中の民が皆、叛いて寄せ手の敵軍を城内に引き入れてしまいました。落城するのは間近です。さあ、腹を召されよ。我々が介錯いたしますので。」
と言い終わると、前に進んだ妻立戸五郎は、刀をきらりと引き抜いて、定包におどりかかって斬りつけると、
「何をする、」
と尺八で刀を受けると、竹笛の中は空洞だから、刀に切られて、尺八の頭ははるか向こうに飛んでいった。戸五郎は、最初の攻撃を失敗してしまい、相手が主人だと思い出して、気後れして、武者震いをしたまま動けなくなった。定包の怒りが目尻を引きつらせ、
「さては、お前らは謀反を企て、わしを殺そうと来たのだな。バカにするな。」
と怒鳴り声は大きく、立とうとすると、戸五郎、鈍平が続けざまに刀を振り下ろしてくる。その中を潜り抜け、受け流し、切り口がとがった尺八を手槍の穂先のように使ってかわしていたが、他に持っている武器もなく、その尺八を手裏剣のように投げると、戸五郎の右腕に突き刺さった。
「あっ、」
と戸五郎は叫んだとたん、刀をポロリと落としてしまい、後ろにどっと倒れてしまった。定包は、
「しめた」
と走り出して、落ちた刀を拾おうとすると、後ろから鈍平が太刀を振り下ろし、その切っ先が定包の肩先から背中にかけて、ざっくりと切ったので、定包は刀を拾う余裕もなく、さらに撃ちかかってくる鈍平の刀の鍔もとを掴んで、そのまま組み合い、上になり、下になりながらしばらく争ったが、定包の傷は深く、勢いも次第に衰えて、ついには鈍平に膝下に組み敷かれた。だが、しきりに声をあげて人を呼ぶので、鈍平は首を切ろうと腰を探って脇差しを持ったが、定包に振り落とされてしまい、後ろに飛んでいってしまった。
「どうしようか」
とあわてて思わず振り返ると、左側に倒れた戸五郎がいて、突き刺さった竹笛を見つけ、
「これは結構」
と抜き取ると、それをはねかえそうとあばれる定包の喉にぐさっと突き刺した。戸五郎は竹を抜かれて、意識が戻り、がばっと起きて、鈍平を見つけると、おとした刀を拾って渡せば、鈍平は定包の首を切り落として、立ち上がった。すると鈍平らに言われるままに、隣の部屋までやってきた多くの兵士たちは、最初のうちは勝敗がどちらにつくのかわからず、どちらにも味方しないで様子を見ていたが、既に定包が討ち取られたのを見て、あわてて障子、襖を叩きながら、勝ち鬨の声を上げたのだった。
すると主人の左右の傍らに控えていた、女の童らはおびえながら庭から逃げ去り、どこかの誰かに事の次第を告げたところ、定包が死んだ頃に、近臣らが少し離れた建物から来たのだが、岩熊らが用意した兵士に捕らえられ、多くはこのときに討たれてしまった。まして、数だけは多い女房らは、ただ泣き叫んでおり、鈍平は兵士に命令して、玉梓も一緒に生け捕りにし、おのおのが金銀財宝を勝手にかすめとって、表の方へ走り去った。
まことに天が人を罰するのは、時はまちまちだが、罪の軽重を誤ることはない。定包は悪知恵を働かして、主人を殺し、所領を奪い、空にのぼる雲のような富を持ったのだが、百日を待たずに、その家臣に殺されてしまった。これだけでなく、その首を取られるとき、岩熊鈍平らは、はからずも刀を使わず、切り口がとがった竹笛だった。これではまるで竹槍の刑のようだ。
また、妻立戸五郎は、定包の恩顧の者である。その彼も竹笛を投げつけられて、突き刺さり、一旦意識を失ったのは、悪人であったとしても、主人を殺そうとした罰にちがいない。おそれおおいことだ。
その中でも、鈍平の罪は比べる者もないほど重い。神餘の馬養(うまかい)だったときに、逆謀(ぎゃくぼう:主人に叛く謀)と知りつつも、定包のために、主人の乗馬を毒殺し、その後は定包に仕えて、おおくの悪行をたすけて、無情にも多くの民を苦しめたにもかかわらず、悪い報いが自分の身に起こりそうになると、それから逃れようとして、主人を討った。たとえ善人に味方すると言っても、このようなことでは後に子孫が栄えることはないだろう。
昔、後漢の光武帝(こうぶてい)は、反乱を起こした男(彭寵)の奴隷であった子密(しみつ)が男を殺して降伏したところ、不義侯という名の家臣とした。これは不義をして褒美を受けるよりは、不義をせず一人の男として死んだ方がよいということだ。作者(滝沢馬琴)は、常々、歴史軍記を読むたびに、このような場面にいきあたると、おおきなため息が出てしまう。だから、ここにこのような文を書いて、読者に示すのである。
山下定包の事は、いくつかの軍書、旧記に伝えられているが、詳細はわからないが、主人の神餘を殺害した得体の知れない者であることはあきらかである。今もなお、あちらこちらに旧跡がある。さて、これ以上はくどくど書かない。また後に述べるだろう。
(その7 ここまで)
(第五回 終了)
(第五回 終了)
---------------------<<余談>>---------------
「よろい」について
「よろい」は、身体の胴体に着用する防御具の総称である。頭部の防御具が「かぶと」である。甲冑(かっちゅう)はこの「よろい」と「かぶと」をあわせたものであるが、「甲」、「冑」どちらが、「よろい」、「かぶと」に対応するかは現代にいたっても混乱している。そこで、「かぶと」は「兜」を用いる。「甲」は「よろい」類の総称、鎧は大鎧として、中世を代表する「よろい」の一様式を表す。
八犬伝にも、多くの防御具が登場するが、中世の甲には、大鎧(鎧)、腹巻(はらまき)、腹巻鎧(はらmきよろい)、胴丸(どうまる)、腹当(はらあて)の五種類がある。兜には星兜(ほしかぶと)、筋兜(すじかぶと)の二種類がある。甲、兜ともに、札(さね)、金具廻(かなぐまわり)、革所(かわどころ)が共通した部分で、兜にはさらに鉢(はち)がある。
札(さね)は甲、兜を形作るために必要な、紐を通すための穴が空いた板で、革製、鉄製がある。この穴の数や、並び方が特徴的である。この札板を上下につないで甲冑が形成されるが、これを「威(おどし)」という。この上下につなぐために組紐などを「威毛(おどしげ)」とよぶ。近世になるにつれて、鉄製の札を用いる傾向があるが、実は古代の札は鉄製であり、これが中世に革製に転換している。革製の札は、矢に対する防御性が高いことから、武器が矢主体のものに変化したため、中世ではひろく使われた。一方近世は、矢から銃、刀へと変化したために鉄製の札と変わっていったのだろう。
金具廻(かなぐまわり)は、鉄製の札、兜の鉢以外の鉄板製の部分のことである。一番上の札板に続く胸板、栴檀板や袖の冠板(かんむりのいた)、大鎧の障子板(しょうじのいた)、鳩尾板(きゅうびのいた)、脇楯の壺板(わいだてのつぼいた)、兜の真向(まっこう)などが、金具廻と総称される。これらは表裏に華麗な文様が施された韋(がわ:なめした革)で包み、覆輪(ふくりん)と呼ばれる金銀の金属の縁取りがされている。
革所(かわどころ)は、甲冑の韋革(なめしがわ)製の部分である。背中の逆板(さかいた)を肩てつるための肩上(わたがみ)や、脇楯と草摺(くさずり)の間の可動部分である蝙蝠付(こうもりづけ)などが韋革製である。
このように甲は、板で身体を包み込むため、運動によっては、板自身が身体に傷をつけかねない。それを防ぐためにさらに板を挟み込むなど、工夫がほどこされている。さらに、乗馬の際に馬の背中が甲で擦れないようにするといった部分も構成要素として重用である。中世の大鎧は、こういった工夫、装飾が最大限に活かされた、ほぼ騎馬戦を想定した甲冑であり、草摺が足に当たり、その重量(四十キロ)からも徒歩には適さない。大鎧は鎌倉末期以降は打物(刀)による戦闘に移行するため、形状が変化する。全体が身体にフィットしたものとなる。したがって、実戦では腹巻が用いられるようになり、大鎧は儀礼用のものとなっていく。
さて、八犬伝で頻繁に出てくるのが、腹巻(はらまき)である。大鎧が騎兵用の甲であるが、腹巻は歩兵用である。身体をぐるりと札と紐で編んだもので、肩上背面と後立挙の連結部分の押付板、両肩の杏葉(ぎょうよう)といった金具廻を持つ。現在、この様式のものを「胴丸」と呼ばれていて、「腹巻」は背割れ様式のものである。中世では、この逆で、背割れ様式のものを「胴丸」と呼んでいた。それが戦国時代の混乱の中で、名称と構造が逆転してしまった。したがって、滝沢馬琴がこの名称の逆転を理解していたかどうか、謎である。
腹巻鎧(はらまきよろい)は、腹巻に鳩尾板、栴檀板、弦走(つるばしり)、両袖、障子板、逆板、総角(あげまき)という大鎧の構造を取り入れた折衷様式である。現在では、腹巻と胴丸の名称逆転から「胴丸鎧」という。船戦用の甲という説もある。
小具足(こぐそく)は、甲冑では補えない身体の部分を防御するもので、南北朝以降に危険度の高い打物戦に対応するため、重視され、種類が増えた。近世では小具足は甲冑と一体化し、必ず付属するもの「当世具足」となった。籠手(こて)、脛当(すねあて)、面具、喉輪(のどわ)、佩楯(はいだて:膝鎧)、脇引(わきびき)などがある。
参考:弓矢と刀剣 中世合戦の実像 近藤好和 吉川弘文館