南総里見八犬伝 一 第三巻 第五回 その6 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 その次の日、妻立戸五郎は、その檄文を拾いあげて、読み終わらないうちに驚いて、慌てふためき二の城戸にいる岩熊鈍平の所へ行き、
 

「このような檄文が落ちておりました。すでに知っている百姓達を捕らえて、内乱が発生することを防がなければ、ゆゆしき事態になってしまいます。これが、その檄文です。」
 

と懐から一通の文を取り出し、開いて鈍平にみせたところ、鈍平はそれをよく見ようともせず、
 

「実は、わしもまたこれとおなじような檄文を拾って、驚いていたところだ。これがそうだ。」
 

と、取り出して、合わせてみると、その文言、一語の違いもないもので、戸五郎は思わず、大きな息をついて、
 

「寄手の間者(かんじゃ:スパイのこと)が起こした事でしょうが、味方に通じる者があれば、この城は長く持ちません。このままにしておいてはなりません。さあ、一緒にご報告しましょう。」
 

と言い終わり立とうとする袂を鈍平は引き止め、


「妻立殿、しばらくお待たれよ。知っておいていただきたいことがある。」
 

と戸五郎をつれて、側に座らせ、あたりを見渡し人がいないことを確かめると、ついばむ小鳥のように、左右をしきりに気にしながら、扇を口に押し当てて、戸五郎の耳に、口を近づけて、
 

「わしが、この密書を手に入れてから、あちこちの様子を探らせたが、寄せ手に内通して、この城を差し上げよう、と思わない者は、ただこのわしと、貴殿だけだ。それで、わしと貴殿を討ち取って、全員が事を起こそうと、決定したと、ある人から聞いたのだ。大勢が傾いているときに、ひとり、ふたりでそれをどうやって覆すのだ。うかつに義理立てして、雑人らの手によって死んでしまえば、とても残念ではないか。さっさと思いを決めて、定包を刺し殺し、城中の民と一緒に、里見殿に降参すれば、皆の恨みもとけて、死なずにすむかもしれず、ましてや、褒美もいただけるかもしれず、その栄誉を子孫に伝えることができるだろう。貴殿の胸中はどうであろうか。」
 

と問われて、戸五郎はあきれ果てて、


「いったい、欲に目がくらんだか。おぬしが神餘に仕えているときは、わずかに馬の口取りだったのに、我が主の定包様が重用して、光弘の老党の錆塚、萎毛と一緒に大事な仕事を任されていたではないか。おぬしは国主定包の家臣だぞ、定包が神餘の老臣だったころから使ってもらうなど、恩がありながら、その恩を忘れ、これに報いるために仇で返そうとするならば、おぬしは人間ではないわ。命を惜しむのは勇気のない、主に叛く大逆だ。ほれ、何か言ったらどうだ。そこを動くなよ。」
 

と怒りながら小膝を立てて、刀の柄に手をかけると、岩熊鈍平は少しも騒がず、冷静な顔つきで、
 

「忠義を立てるかどうかは、主人次第だぞ。おろかなことを言うな。今、定包を誅殺するのは、昔の主人である神餘光弘の仇に報いるためなのだ。以前、無垢三らの手を借りて、主君を討ったことを口外するのは、これがはじめてだが、聞かせてやろう。その日は、朝から曇っていて、夏でも肌寒く、落ち葉の岡に鷹狩りに来たとき、光弘様の乗った鶬毛(ひばりげ)の馬が斃れたとき、定包は自分の白馬をすぐに主君に差し上げて、乗り換えさせたのだが、定包自身はそこから引き下がって、朴平、無垢三はこの白馬を遠くから見つけて、定包が来たと思ったので、矢が届く距離に近づいてきたとき、ひょうと放った矢によって、光弘様は胸を射られて、馬からどっと落ちて亡くなったのだ。その前日だが、定包はわしを密かに招き寄せて、『じつは密謀があるのだ。お前はこれに荷担して、明日の鷹狩りの出発の時に、国主の乗馬に毒を食わせよ。成功すれば重用してやるぞ。これは当座の褒美じゃ。』と言って、多くの物をくれたのよ。随分酷い話だと思ったが、やつは老臣、わしは下僕だ。反抗してもかなうわけもない。嫌だと言えば殺されてしまう。命に変わる物はないと決めて、その策略を引き受けて、その日馬を殺したのだ。こうやって二郡両城は、定包が取ったのだ。その後、わしの働きに報いるためか、今は老党の末席に加えてもらい、大事な役を任されているとはいっても、恩などと呼べるものではないわ。このことを知る者は、萎毛、錆塚の両人だけだが、彼らは既に死んでしまった。今は、おぬしだけだ。ところで、妻立殿。おぬしは日頃より奥方に心を寄せて、かなわぬ恋に悩んでいると、わしはかねてより思っていたのだが、そうであれば、はやく思い直して、定包を討って玉梓を堂々と妻にしてしまったらどうだ。わしも、おぬしに味方するぞ。」

 

と長い間説得されて、戸五郎は心が動き、悩んでいたが、組んでいた手をほどいて、ひざをはたと打って、

 

「おっしゃることは真実であろうな。ならば、逆賊に従って汚れたこの身体を洗うためには、小さな理屈を捨てて、大義を述べた貴殿の話に従おう。さあ急ごう。」


と大きく頷くと、岩熊鈍平は大変喜んだ。そして、
 

「ならば、こうしよう」
 

「そうしよう」
 

と交互に事の段取りを打ち合わせ始めたのだった。
 

(その6 ここまで)