南総里見八犬伝 一 第三巻 第五回 その5 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 このようにして義実主従は、香を焚き、神酒を杯に注いで、白旗の祠に拝み、準備しておいた数十羽の鳩の足に、作った檄文を結びつけて、屋外に放てば、思った通りひらひらと飛び上がって、皆一群となって城中に帰って行った。あまり固く結びつけていなかった文なので、鳩が城中へ入ると、自然と結び目が解けて、不思議なことに、今回軍役に入ったばかりの平郡(へぐり)の百姓達の小屋のそばへ、ぽとりと落ちたのだった。すると、
 
「これはなんじゃ」
 
と皆不審に思ったが、それぞれが手にとって、文を開いてみると次のように書かれていた。

 「流れる水は、高いところには向かわないように、良民は不正義には従わない。もしそれをたすけて正義を討つようなことがあれば、水が高いところに流れていくのと同じだ。このことを天にもとる(理にさからう)というのだ。勢いに逆らうことはできないと思うだろうが、そもそも賊主の定包は、良いことばかりを言って、主人をだまし討ちにし、悪法をによって民衆を虐げてきた。王莽や安禄山は仁義の人であった。もっと他にもいるだろう。思い出してみれば、我が主、源朝臣(みなもとのあそん)殿が、この国へ渡ってこられてから、まだ何日も経ってはいない。しかし、衆に推されて逆臣を討ち、民を苦しみから救い出された。その徳は湯になったようである。その輝きは猛々しさに溢れている。ここにおいて、東条城を取り、二郡を手中に収め、我らの住処を破ろうとする、哀れむべきお前達よ。この命令は賊にしたがうことなのだ。よって、ここに示そう。速やかに我々の軍に従う者は、罪をまぬかれるであろう。くどくどと迷っていると、後悔することになるぞ。天は必ずお前達を見ていて、罪ある者はかならず罰せられる。このことは必ず約束する。我が主君に成り代わって、この文を書いた。
  嘉吉元年辛酉夏五月        金碗八郎孝吉等 奉(うけたまわる)」

 これをみた滝田城の軍民らは、みな喜んで口々に、
 
「この御曹司は仁君だなぁ。血を流すことなく東条の城を落とし、今ここでわしらに憐れみの心をもって、言ってくれるとはなぁ。名前を聞けば、心惹かれてしまうのだが、不幸にも城にかき集められて、十重、二十重に囲まれてしまっては、里見に下る方法がない。塀を飛び越え、掘りを越え、あそこに行けることができたとしても、今更、本当にゆるしてもらえるのか、と思うと悩ましい。つまるところ、寄せ手の敵に内通しようと、隙をうかがって日をすぎれば、事が発覚して、皆殺しになって、あそこへは行けなくなってしまう。急いで、思いを奮い立てて、本城へ火を放ち、煙が上がったところで、寄せ手を引き入れて、混乱に乗じて、人食い馬の定包を撃ち殺して、その首を引き出物として、里見殿に見参すれば、これまでの恨みを果たし、里見殿にも取り合っていただけるであろう。それでは。」

と密かに集まって衆議をして、すぐに決をとりたい者もいるが、一方まだ不審に思い、

「第一の出世頭である錆塚幾内は討ち死にしたが、あの岩熊鈍平は、手傷がおおかた治って、二の城戸の守りについている。先君、神餘光弘が存命のときには、鈍平は馬養であったが、心は猛々しく、力が強かったので、定包が二郡を横領した後に、徐々に重用されて、民の勤労から得た利益を搾り取る、悪賢い知恵は、主人の定包と同じだった。また、妻立戸五郎は、少年の頃より定包に使われていた随一の近習である。武術、芸能が人よりすぐれて、今なお主人のそばに張りついたままだ。まずこの二人を討ち取らなければ、本城に乱れ入ったとしても、彼らとその仲間や家来が多いので、たちまちのうちに遮られ、留められて、本意である定包の誅殺はとげることはできないだろう。そうは思わぬか。」

とささやけば、皆、
 
「もっともだ」
 
と答えながら、

「ならば、その両人を討って、この守りの中核を取り除いてしまうよう、思う存分働こうではないか。」
 
と手分けをしたのだった。
 
(その5 ここまで)
 
---------------<<余談>>-------------
嘉吉元年は1441年、結城合戦が終決した年である。金鋺孝吉がこの文を書いたのが五月であるから、その翌月播磨国でいわゆる「嘉吉の乱」が起こる。この乱は播磨国守護・赤松満祐が第6代将軍・足利義教を殺害し、領地の播磨国で幕府軍に討伐されるまでの事件である。
 
 ここで足利義教だが、有名な「籤引き将軍」である。第4代将軍義持が第5代将軍義量が早世したにもかかわらず、後継者を決めないまま無くなったので、義持の4名の弟達から籤引きで後継者を決定した。選ばれた義教は、天台座主の義円で、室町前期から将軍を支えていた三宝院氏、山名氏などの勢力が衰えてきたため、地方の守護大名の家督相続に強引に介入するなどで将軍の地位向上を図ろうとした。実はこの家督相続介入により将軍家への不信と守護大名家内部の離反などを招く原因となっている。また、関東経営で対立していた鎌倉公方足利氏も滅ぼし、自身の出自である比叡山延暦寺とも寺門経営で対立し、力尽くで屈服させたがために、僧侶達が根本堂に火を放ち自殺するまで追い込んでいる。火を放ったのは将軍側ではないかという話もある。義教は猜疑心が強く、反抗を示す者は遠島、殺害されるなど、恐怖政治を敷いていた。
 
 赤松満祐は一の頃は義教に可愛がられていたが、勢力が大きくなると疎まれ始める。そこで義教は赤松を討つために酒宴に出席するものの、逆に誅殺されてしまう。これが嘉吉の乱のはじまりである。この酒宴には多くの大名が出席していたのだが、ほとんど自宅に逃げ帰っている。主人の将軍が殺されたのにだ。以下に義教に徳が無かったかがわかる。一方赤松満祐の方も、大罪を犯した人物への協力はできないという状態だったのだろう。この点からみると勃発的な事件だったと想像できる。
 
 義教を失った室町幕府は義教の嫡子・良勝を次期将軍とする。一方播磨に戻った赤松満祐は足利直冬(足利尊氏の子)の孫・義尊を擁立し、室町幕府と対立する。陣内記によれば、後花園天皇は管領・細川持之へ赤松満祐討伐の令を出した。本来ならば足利将軍とその家来の大名との争いであるから、幕府内で解決すべき問題であるところ、天子の勅を仰ぐほど、管領・細川持之の事態収集能力が欠けていた。朝廷内部での室町幕府不満もここから乗じていく。
 
 これ以降の流れは省略するが、後南朝勢力の京御所への乱入し、三種の神器のうち八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)が奪われるといった事件(禁闕の変)までも発生させた。
 
 この赤松氏と弱体化した室町幕府、家督相続への強制介入を受けた守護大名などが、この後の応仁の乱へと突入していくのだ。
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