南総里見八犬伝 一 第三巻 第五回 その4 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 孝吉の計画を聞き、よくよく考えて義実は、

「貞行の計画は危険は少ないが、我が軍には益がない、孝吉の計画は巧妙であるが、とても危険なものだ。私が思うには、昔、聖王賢将(せいおうけんしょう)は仁義の戦は起こすが、嘘をついて勝つことをしなかった。また中国の晋の文公(ぶんこう)は、だますような策略は使わずにいて、五伯(五人の優れた者)の一番として褒め称えられ、周室(しゅうしつ)をよくたすけた。しかし、孫呉(そんご:孫子、呉子)の兵法では、人をあざむくような詭道(きどう)が主なものだ。これは戦国の習慣である。策略することはよいのだが、だまして敵を滅ぼし、その土地を奪ったときは、どのような理由でその民衆を救うことができるのだ。お前達の計画に、賛成できないのはこういう理由からだ。定包は富んだ土地を持ち、要害の城に立て篭もっている。さらに三年保つだけの食糧があると聞いているが、防御の手だては通常通りであれば、この城は殆ど落ちることはないだろう。一時に攻めて城を乗っ取れば、罪のない人々が多数死んでしまう。前にも言ったように、定包に従っている者は、すべて凶悪な人間だけではないだろう。権力に圧され、威力に恐れ、いったん籠城したものの、その中で、楽しみを分かち合えず、ついに不安がつのって、命をそこで落としたとすれば、とても痛ましいことであろう。秦の降卒(ごうそつ)は八万人を穴に埋め、項羽の凶暴ぶりはいまさら言うべきもない。秦の蒙恬(もうてん)は漢の霍光(かくこう)[注4]のような知勇の将は後に出現していない。だから、人がたくさん死んでいくのだ。私の願いは、定包ひとりだけを誅殺すれば十分なのだ。これ以上、策略を用いることは耐えられない。」

と心を込めて説得すれば、貞行も孝吉も、ただ「ああ」とばかりに感服して、なにも言うことができなかった。
 
 しばらくして、この二人は無意識にため息をついて、
 
「義実様の賢慮は私たちの智よりも遥か上で、昔の聖王賢将よりも優っていらっしゃいます。そうではございますが、時、すでに道義など廃れておりますので、利に集まる者はとても多く、徳によりそってくるものは極めて少のうございます。義実様の自他の差別なく愛される思いはとても深く、敵城にこもる者まで助けようと思われていらっしゃいます。しかし、私たちは敵対していて、決して一つにはなれません。兵糧も既に尽き、計略によって城を乗っ取ることもできず、また敵を欺いて退却もできないまま、無駄に日を送れば、味方の千を超える人間は、飢渇に耐えられず、心は離れ、背くに違いありません。そのようになったときは、誰と組んで戦をすればよいのでしょう。宋襄の仁(そうじょうのじん)、微生の信(びせいのまこと)[注5]は日頃の笑い話でございます。さらにもっとお考えいただいて、なにか方策を立てなければ。」

と言うと、義実はにこっと笑みを浮かべて、
 
「兵糧が乏しくなってきたことは、私も憂慮していたのだ。そこで物思いに空を見上げ、あちこちとなく眺めていたところ、東南の方角にある豆畑に鴿(いえはと:家を住処にする鳩)がたくさん食べあさっているのを見た。それらはどこからくるのかと見ていると、滝田の城から朝出てきて、夕方になると帰るようだ。鳩(はと)は源家の氏神で、八幡宮の使者といわれている。この鳩によって偶然に、ちょっとした手だてを思いついたので、神に祈って、若者どもに計画を伝えて、密かに網をしかけて、例の鳩を五、六十羽ほど捕らえてある。
 そこで、私が数通の檄文(げきぶん:定包の罪状を暴き、義実の真心を伝える文)を書いて、これらの鴿の足に結びつけて、放せば必ず城へ帰るであろう。ある時、城内の人があやしく思って、鳩を捕らえてその書をみるだろう。または捕らえられなくとも、結び目が解けて、城内に落ちるかも知れない。そうすると、城中にいる者どもが、この檄文を開いて読めば、不正を退け、正義を感じる、そのような心の変化が生まれ、城は攻めなくても必ず破れるはずだ。従う心のないものは、ここへくれば必ず殺されると思いこんで、城を守ることになるかもしれぬ。これもまた都合が悪い。
 本当に子供のような智に等しく、とりとめがない策のように思えるであろうが、先に、ここへ攻め寄せるときに、待崎(まつさき)のほとりで、白旗神社で祈ったところ山鳩が飛び立つめでたい前兆があった。今、ここで鴿の助けがあれば、と祈るだけだ。そうなるかどうか神にまかせて、実行してみよ。」
 
と言うと、貞行、孝吉はますます感じ入って、
 
「素晴らしい策でございます。今、定包の罪を数えて、城中へ示すことができれば、これに増す方法はございません。軍民ひとたびその書を見れば、怒って乱が生まれましょう。そして賊首(ぞくしゅ:盗賊の首領)の首を献上するでしょう。急いで実行いたしましょう。」

と言葉を同じにして、義実の策にこたえた。金碗孝吉は命を受けて、檄文の草案(したがき)を書き始めながら、書ができる士卒を集めて、数十通を写させ、あっというまに写し終われば、まだ日は暮れていなかった。

-------------<<注釈>>------------
[注4]秦の蒙恬、漢の霍光

 秦の蒙恬は、秦の始皇帝に仕え、匈奴を討伐し、長城建設に功績をあげ、兄弟で秦の内政、外政を支えた。しかし、始皇帝の死後、胡亥・趙高・李斯の三人の共謀により、偽の始皇帝の詔書により蒙恬は、扶蘇とともに自害させられた。
 
 漢の霍光は、武帝に仕え、信任の厚かった政治家で、武帝死去後の幼い昭帝の補佐としてよく使えた。人望も厚く、よく皇帝を助け、漢の政治を速やかに進めたので、その功績は偉大といわれている。霍光自身は、ひたすら身を慎み、専横を嫌い、僭越な振る舞いなどしなかった。しかし、霍光の周囲の者は、その信望厚いことをよいことに傲慢な振る舞いも多く、人望もなかったため、霍光亡き後、宣帝(武帝のひ孫)に一族は滅ぼされる。
 
[注5]宋襄の仁、微生の信
 
 「宋襄の仁」とは、宋と楚(そ)との戦いの際、宋の公子目夷が楚の布陣しないうちに攻撃しようと進言したが、襄公は君子は人の困っているときに苦しめてはいけないといって攻めず、楚に敗れたという「左氏伝(僖公二十二年)」の故事による。不必要な哀れみを施してひどい目にあうこと。無益の情け。事宜を得ない哀れみ。(大辞林 三省堂)
 
 「微生の信」は小さな微生物に信(まこと)の心があるので、殺さずにいたら刺されて痛い目にあうということ。
 
(その4 ここまで)