南総里見八犬伝 一 第一巻 第一回 その3 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 季基は脱出していく我が子義実を少しの間見送っていたが、


 「今はもう、心がすっかり晴れたぞ。さあ、これが最後の戦いになる。皆、遅れるな!」
 

 と、馬の手綱(たづな)を操って、戦場へとって返していった。十騎に足らない数の残った兵だが、鶴の翼のような隊形に広がり、群がりくる敵軍兵士を素早く取り囲んで、槍でついていく。こちらは勇敢な武将の家来もまた、強い兵士であり、主人と家来で二騎、三騎と敵を破っていく。季基の率いる兵士達はみな、ここで踏ん張ることで、義実の脱出を助けようとする気持ちだけで戦っているのだ。だからこそ、膨大な数の敵の大軍を一足も進ませず、味方の死骸を踏み越えて、敵と組み合っては差し違えて死んでいく。こちらの大将季基も同じような状況で、八騎の家来は一人も残っていない。皆敵軍に飛び込んで撃たれ、その血潮は野の草葉を朱色に染め、死体はあちらこちらにおかれたまま、馬の蹄(ひづめ)の塵に埋もれていった。しかしその名は朽(く)ちることなく、京都まで伝わって、この戦いぶりや、その最後は勇敢な武士として語り伝えられたのだった。
 

 さて、その後、里見義実は、杉倉と堀内に導かれるようにして、十町(約十・九キロメートル)ほど逃げてきたが、
 

 「こんなとこまで逃げてきたけれども、父上は、どうなったであろうか。気がかりだ。」
 

 と何度も馬の足を止めて、振り返ってみれば、戦場は鬨の声(ときのこえ)や矢が飛び交う音などが大きくなっていて、もはや落城したのかと思えるように、燃えさかる炎が天を焦がすように煙が立ち上っている。義実は、


「あっ!」
 

と叫ぶと同時に、そのまま手綱を引き絞って、馬を戦場に返そうとすると、二人の家来が左右より馬の轡(くつわ)にすがってついて、馬の動きを止めてしまった。


「義実様、引き返すのはもう無理でございます。今更、戻るのはものに狂ったとしか思えませんぞ。大殿(おおとの・季基のこと)の言いつけを、何と聞いておられたのですか。今まさに落ちようとしている城に戻って、義実様の命さえも失ってしまえば、古い歌にあるように、『夏虫の火虫よりなおはかなきなり』(飛んで火にいる夏の虫)と同じでしょう。大げさな信心は本当の信ではありませんし、おなじようにおおげさな孝行も本当の考ではないに等しいと古人の金言(格言などの守るべき教えのひとつ)を日頃より、口ずさんでおられたではありませんか。高貴な人も、下賤な者も、忠孝の道は同じようにひとつしかないのに、義実様が迷っておられるというのはどういうことでしょうか。さあ、こちらへいらっしゃいませ。」
 

 と馬を引くと、親思いの息子である義実の心は悲哀に傷ついていて、声色もいらだちへと変わっていった。


「放せ、貞行。止めるのではない、氏元。そなたらが言うことは、父の心に従って言っていることだろうが、今、父上が死のうとしているのに黙って忍んでいれば、私は、人の子とはいえない。だから放してくれ、放せ!」
 

 と鞭(むち)を上げて馬を打って走らせようとするが、二人の忠臣の拳は石のように硬く、轡をゆるめず、馬は引かれていき、戦場からどんどん遠ざかっていくのだった。しかし、いくつかの谷や丘を越えて戦場から離れたところで、勝った鎌倉勢の約二十騎が義実一行を追いかけてきた。
 

「おお、そこの立派な武士の格好をした者、逃げ足が速いではないか。緋縅(ひおどし)の鎧(よろい)を着て、五枚冑(かぶと)も鍬形で、輝く白銀を使って中黒の家紋を付けているとは、これは大将並の武士ではないか。逃げるとは卑怯な、戻ってこい。」
 

 と呼びかけた。義実はすこしも動じることなく
 

「ああ、うるさい、雑兵ども。こちらは敵を恐れて逃げているのではないわ。引き返すのは簡単だ!」


と、馬の態勢を立て直して、太刀を抜き、かざして敵に向かった。大将が討たれてはならないと、杉倉と堀内も並んで敵の矢面(やおもて・正面)に立ちふさがり、槍をひねって敵を突き、崩していった。義実はこの家来達が討たれないようにと馬を彼らのそばに寄せていったので、お互いが前後を荒そう形になり、大勢の敵の真ん中を十文字に駆(か)け通ってしまい、そして、巴の字のようにとって返して、鶴翼の隊形で突入して、魚の鱗のような形に変わって戦えば、東西南北の敵と戦った。戦いの方法である三略の伝、八陣の法、を主従ともによく勉強して理解しており、今前にいたかとおもえば、後ろに引いていたり、激しく戦ったり、突進してきたりといった秘術を尽くし、様々な形を変えて繰り出してくる太刀に、大勢の敵軍もすっかり乱されて、皆一斉に退いていった。敵がいなくなれば、杉倉と堀内は主人の義実をなだめて、しずかに脱出していく。しかし、なおもつけてくる敵兵は矢で射て殺していったので、ついに追っ手もなくなったのは、さらに三里(約十二キロメートル)ほど逃げた林原であった。そのときには日も落ちようとしており、夕日のあとに、十六日の月が丸く空にうつっていた。

 

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<<雑記>>

騎馬武者の戦場での戦いというのは、以外と不便である。戦国時代に、集団化した騎馬軍による急襲攻撃という戦術的な用法とは異なり、八犬伝の時代では、そこまで洗練されておらす、単騎や複数騎による戦端での敵勢力の弱点への投入が主な仕事だった。騎馬武者には従者がつきもので、およそ3名が付く。一人は轡をとり、武者の言う方向に馬を自在に操ってむける。あと馬むけまたは騎馬武者主従の食料を調理する者。それから伝令や、討ち取った敵の首を確保する者。これらが揃ってはじめて騎馬武者は戦に参加できる。源義経の騎馬武者ぶりは、一種のゲリラ戦で、単独もしくは複数の騎馬武者だけで敵地を攪乱する方法だったため、短時間で終了するので従者は不要だった。

 

ここれ里見義実は、父親を配線濃い戦場に残して脱出することは儒教でいうところの「孝」にもとると考えた。これに対して父親の季基は、自分自身の忠義のために息子の考は太刀打ちできないことを説得し、みごと義実は落ちていく。