南総里見八犬伝 一 第一巻 第一回 その4 | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

 不思議にも、この後を追ってくる敵はすでになく、義実と家来達は危険な場所から脱出することができたのだった。その夜は、探しあてた粗末な家に泊めてもらうことにした。翌朝出発するときには、馬の道具をその家の主(あるじ)に分け与えて、義実達は鎧姿(よろいすがた)から軽装(けいそう)に変えて、笠を深くかぶり、周囲は敵だらけの土地にもかかわらず、少しもびくびくしたところなどみせず、相模路を急いで下り、脱出して三日目には、三浦という武士が支配している土地の港にたどり着いた。何も持たずに脱出してきた義実と氏元は、食べるものもなく、とてもひどく餓え、疲れて松の根元に腰を下ろした。そしてひとりはるかに遅れている堀内貞行は、海を渡って安房の国へ行くために、船を探しに行っているので、義実達はそれを待っていた。目の前は入り江から沖にかけて青海原(あおうなばら)で、波は静かに揺れていて、白鴎(はくおう・かもめ)は眠っているのか、一匹も見あたらない。今は卯月(四月)で、海には霞がかかっているが、鋸山(のこぎりやま)がうっすらと形が見える。まるで鑿(のみ)で削り、刀で切ったような山の壁が見え、まるでこの旅が長く険しくなるように感じたのだった。そして、雨が降ったあとの漁村の柳と、夕方になり、遠くから聞こえる寺の鐘の音が、さらに寂しい気持ちにさせるのだが、こんなところでじっとはしておられないと、海を早く渡りたいのだが、この港には船が一艘(いっそう)も無いのだった。
 
 杉倉氏元はそのとき、船をおおうのに使う茅で編んだ苫(とま)で作られた粗末な家(苫屋・とまや)のかどで、干し魚をとりいれている漁師の子供達を呼んで、
 
「あのな、少しものを尋ねるが、向こうの安房の国まで渡す船はこのあたりに無いのかの。そして、私たちは道に迷ってこの浦まで来てしまい、とても腹もすかせているのだ。私のことはどうでもよいが、私の主人へ何か食べるものはないか。」
 
 と正直に話をしたが、その子供達のなかの一人、十四、五歳ぐらいの態度が悪い子供で、髪の毛も赤く焼けて熊のよう、さらに肌色は潮風に吹かれて真っ黒、顔にかかった髪の毛をかきあげもせずに、鼻水をすすりながら、寄ってきて、
 
「なに、馬鹿なことを言っている人だな。長いこと続く戦(いくさ)で、船はほとんど取り上げられて、漁をするにもできないんだよ。誰も海を渡ることなんかできないよ。それに、この漁村では自分の腹でさえ満腹に出来ないのに、見ず知らずの人が腹を空かせていても、それを助けるだけの食べ物なんかないよ。それでも何か食べたいのならば、これでも食え。」
 
 と笑いながら、土をひとかたまりすくって投げてきた。氏元は素早く体をよけたので、土のかたまりは松の根元に座っていた義実の目の前に飛んでいった。そして義実は左の方へ体を素早くずらして右手で、この土を受けたのだった。この憎たらしい態度に氏元はすかさず、眼を見張って大声で、
 
「これは、なんという態度だ。不自由な旅だからこそ、お前達に食べものを頼んだだけなのに、無ければ無いと言葉で言えば良いものを、無礼をするにもほどがある。こっちに来い、その口を切り裂いて、思い知らせてやる。」
 
 と息巻きながら、刀の柄(つか)に手をかけて、走っていって子供を斬ろうとしたところ、義実はそれをすぐに呼び止めた。
 
「木曽介(きそのすけ・氏元のこと)、大人気(おとなげ)ないぞ。足の速い馬も年をとると、つまらぬ馬にも劣り、鸞鳥(らんちょう)と鳳凰(ほうおう)も、小さな蟻に苦しめられることもあるのだ。昨日は昨日。今日は今日。今は私たちは、身を寄せる場所など無い身分だと言うことを忘れたのか。この子供達を相手にしている場合か。よくよく考えてみれば、土は国の基となるものだ。私が、今、安房へ渡ろうとしているときに、このようなことが起きたのは、天がその国を与えようという兆しに違いない。あの子を無礼者と見ると憎らしくなるが、これを良い兆(きざ)しであると見ると、喜ぶべきことではないか。昔中国に晋(しん)という国があったが、その王である文公(ぶんこう)にまつわる五鹿(ごろく・曹国の地名)の故事(こじ)が、今日の出来事にとても似ている。だから、もっとよろこびなさい。」
 
 と義実は自ら祝して、土のかたまりを三度拝(おが)んで、そのまま自分の懐(ふところ)にしまったのだった。氏元も話がわかったのか、刀の柄にかけた手を元に戻し、怒りを静め、将来が頼もしく感じた主君に微笑みかけたので、漁師の子供達は、手を叩いて、またまた笑い出したのだった。
 
 その時、海辺の磯山に雲がもくもくと立ち上がり、海面も急に黒々と色が変わって、磁石に塵が吸い付いていくように、潮水は激しく波立ちはじめ、風はさっと吹き抜け、雨はあの飛鳥、多武峰(とうのみね)の鞆岡(ともおか)に生い茂る笹[注1]が激しく音を立てるよりも、さらに激しく降りつけ、稲光も絶え間なく、雷音もおどろおどろしく鳴り響き、いまにも稲妻が落ちようと鳴り響いてきた。漁師の子供達はあわて騒いで、それぞれの家へ走り帰り、内から戸を閉めてしまったので、義実の家来が戸を叩いてもなかなか開けてくれない。しかたがないので、義実とその家来は、笠で雨をしのぐしかなく、入江の松の下の陰に、笠を翳して立っていた。
 
 時が経つ程に風雨はますます激しくなり、あたりは暗くなったり、明るくなったりして、寄せてはくだけ、くだけでは飛び散る波を包み込むように荒れ動く雲の中に、何やらいるぞと、目を見張ったその瞬間、まばゆい光を放って、突然に白龍があらわれた。白龍は光を放ちながら、海の波を巻き上げて、そのまま南の方向に飛び去って行ってしまった。
 
 その後、しばらくして雨は上がり、雲も静かに収まり、太陽は水平線に沈みながらも夕焼けの色を海に映し出している。松の梢を伝わって落ちてきた水のしずくが、吹いている風にあおられて玉のように散っていき、浜の砂や小石の中にしみこんで消えてゆく。遠方の山の緑は深く染まり、岩肌は青暗く、まだ乾いてはいないようだ。このような飽きることのない素晴らしい風景も、自分の身に起きている不遇からくる不安をぬぐい去ってはくれない。
 
-----------------------------------------------
 [注1] 原文「雨は彼鞆岡の篠より繁く降りそそぎ」
 「鞆岡の篠」とは枕草子第249段「岡は船岡、片岡、鞆岡は笹の生ひたるがおかしきなり」とある。船岡は京都・船岡山、片岡は奈良・北葛城にあり、鞆岡は飛鳥・多武峰または京都・嵯峨野といわれている。
 このように、八犬伝では著名な国内外の古典から引用される修飾文や比喩が数々あり、当時の読書人における教養の豊富さをはかり知ることができる。
 
<<雑記>>
 この後、龍に関する故事が語られていくが、龍は仏教で語られる生き物で、その原典が妙法蓮華経に登場する。これについても次回で詳しく解説しよう。その前に、義実が渡ろうとしている安房国を含めた結城合戦前後の時代背景を述べる。
 
 ここで、藤平家 四代目 重行は、太右衛門改め左京亮。明応十年(一五〇一)七月五日歿。法名・泰山居士。藤平重友を祖とする藤平家は日蓮の末弟が重友である。
 
 重行の時代は、関東公方足利成氏と、その執事である関東管領職の上杉憲忠の主導権争いで関東に大乱が起こる(一四五四)。関東の武士は足利成氏の古河公方と、将軍義政の弟、足利政知の堀越公方とに別れて争うはめとなった。室町幕府は上杉氏と結び古河公方を奉ずる武士の討伐を行った。古河公方を支持する武士は、北関東や房総の武士が多く、堀越公方の方は上杉憲定の家老・長尾景信を支える国人たちであった。
 
 これより先の正平年間(一三四六−)、関東管領の足利基氏は執事の山内上杉憲顕を安房の守護に任じて以来、安房国は山内上杉家の配下に属し、結城合戦の時、扇谷上杉持朝が安房の兵を率いたことが『永亨記』に出ている。結城合戦(一四四〇)に関東公方足利持氏に仕え、その子である安王丸、春王丸に味方して篭城した里見家基は、落城のとき子息義実を逃がし、その里見義実が安房に上陸し、安房の豪族である神余、安西、丸、東條の各氏を制圧し(文安二年 一四四五)、まもなく上総の夷隅も支配した。三代義通の時に安房国総社として鶴ヶ谷八幡を造営した明応−永正五年頃(一四九二−一五〇八)に安房一国が統一された。すでに夷隅の藤平家は里見家家臣となり、相模三浦半島では、北条早雲が三浦家の新井城を攻め、弥次郎時綱が海を渡って安房国正木郷(現館山市)に逃れた。時に永正十三年(一五一六)と伝えられている。この時綱が里見家重臣の正木大膳亮時綱で、子息の三男時忠は養珠院お萬の方の祖父である。
 
 里見義実が安房上陸した嘉吉元年頃(一四四一)には、すでに藤平一門は内房の吉浜(現在保田市)に進出し、富士門流妙本寺の寺門経営に多大の寄進をしていることは、「安房国 妙本寺文書」に記されている。
 
出典:日蓮宗 現代宗教研究所 所報第30号:105頁〜 http://www.genshu.gr.jp/DPJ/syoho/syoho30/s30_105.htm