フリードリッヒ・ヴィーク | 徒然名夢子

徒然名夢子

日々此々と過ごしけるに
東に音楽の美しきを聴けば、其処何処に赴き
西に優れたる書物のあると聞けば、其処何処に赴き
其処においても何処においても
心楽しからむことのみを願い生きることは
我の本心にほかならず

Freidrich Wieckは、ロベルト・シューマン、ハンス・フォン・ビューロー、クララ・ヴィークのピアノ教師だった人で、1785年生まれ、1873年没。クララの父親だ。ヴィークはクララが幼いうちに彼女のピアノや音楽に関する天才ぶりを感じていた。したがって超一流のピアニストに育てるために、あらゆることをしたようだ。シューマンはそれにこたえるように厳しい練習に耐えた。ビューローは持ち前の秀才ぶりで様々技術だけでなく音楽の構造にまで理解するようになる。

 

後に、シューマンが手の故障により作曲家と音楽批評家に転じ、ビューローは交響楽団の指揮をするまで自身の音楽ジャンルの幅を広げた。ビューローは、世界で初めての職業指揮者だと言われている。このころはオーケストラの指揮をするのは作曲家だという暗黙のルールがあったが、彼の登場で作曲家、演奏家、指揮者といったように分業制になる。ビューローの指揮を見たメンデルスゾーンが観客にお尻を向けて指揮をする現代のスタイルに変えた。それまでは、横向きで指揮をしていた。

 

さて、ヴィークの元を去ったシューマンは、クララのヨーロッパのあちこちでの演奏旅行の合間に、恋文を送りあい互いの愛を確かめ合いながら、音楽的情熱も作曲する楽曲に与えていく。シューマンのピアノ楽曲にはクララを示すテーマが多く登場している。

 

ヴィークはピアノ教育を向上させるべく、ピアノ製作工場と楽譜出版社を設立させた。クララのためのピアノ、クララのための楽譜印刷、といってもよいだろう。そのためか、当時では音楽教育者の重要人物として位置づけられていた。そのために、ピアノが弾けないシューマンとクララの結婚には反対していたのかもしれない。そして引くに引けなくなり裁判にまでもつれ込む。しかし一流のピアノ教師であったことは間違いなく、フェリックス・メンデルスゾーンが設立したライプツィヒ音楽院(1843年開校)のピアノ教授にならないか、と打診されたこともあったようだ。

 

メンデルスゾーンとのかかわりあいだが、娘のクララが9歳(1828年)にライプツィヒ・ケヴァントハウス管弦楽団との共演でモーツアルトのピアノ曲でデビューしている。このときメンデルスゾーンは19歳で、クララの演奏を聴き、感動していた。メンデルスゾーンがこの管弦楽団の立て直しと指揮者に就任するのは1835年26歳のときだ。ケヴァントハウス管弦楽団は、その後ブラームス、チャイコフスキーといった一流の作曲家かつ音楽家を招聘し、1933年のナチス・ドイツの躍進によるユダヤ人作曲家の音楽演奏の禁止令が出されるまで、豊かな音楽性と経験と歴史を紡いできた。

 

さて、最初の動画はクララ・ヴィーク=シューマンのピアノ三重奏 作品17 1846年作曲

ピアノが和音を細かく刻み、音階を下降するなかで、チェロとバイオリンが時間軸に沿って主副旋律を奏でる。この動画の演奏は、互いに楽器が食い合わず、微妙なバランスをとっているところが素晴らしい。逆説的ではあるが、食い合ってしまうとクララの意図した音楽ではないといえる。

 

シューマンは1843年にライプツィヒ音楽院の教授となっている。33歳で、ベルリオーズと交流する。そして父ヴィークとやっと和解する。

 

次に、シューマンのロマンス作品28の2(1839年作) コンスタンチン・セミラコヴス演奏

この動画では楽譜を見せている。旋律が中央の段で主旋律とすると、いわゆるハモル部分が下段の左手の高い音の部分。左手の低音部と右手の高音部(上段)の分散和音で挟む形だ。これは歌曲的発想であり、男声で愛の告白をしていて、それを心ときめかせ聞いている乙女がいるとでも思えばよいだろう。演奏技術的にはあまりコメントが無いが、何しろ両手が広げっぱなしなので、タッチのコントロールを一つでもミスると音楽がだめになってしまう。ちょっと神経を使う楽曲だ。

 

1839年はシューマン29歳、翌年やっとクララと結婚する、そのような時期で、音楽的社交的にも実りの多い年だった。