1180年(治承4年)に源氏再興の挙兵をした源頼朝が、鎌倉へ向かう途次、平家討滅の祈願をしたという浅草寺。
浅草寺のある「浅草」(あさくさ)という地名が歴史上で初めて登場するのは、鎌倉幕府の記録といわれる『吾妻鏡』なのだとか。
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『吾妻鏡』によると、1181年(治承5年)7月3日、源頼朝は、武蔵国浅草の大工(字(あざな)郷司)を召し出して、仮の宮だった鶴岡八幡宮を建て直しています。
7月20日には上棟式を迎え、大工たちに褒美の馬が与えられました。
頼朝は、棟梁に与える馬を引く役を弟の源義経に命じますが、義経が快く引き受けなかったため頼朝の不興をかったという逸話が残されています(大工の馬事件)。
1868年(明治元年)に発布された神仏分離令。
神道と仏教、神と仏、神社と寺院とをはっきり区別させるための法令ですが、それまで神仏混淆の宗教施設だった鶴岡八幡宮では、廃仏毀釈の運動が盛んになり、仏教施設が悉く廃除されました。
鶴岡八幡宮の経蔵に収められていた「元版一切経」(げんぱんいっさいきょう)は、北条政子が長男頼家の追善供養のため、中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したものでしたが、神仏分離後、浅草寺に移され、現在は、宝蔵門に収蔵されています。
鶴岡八幡宮の経蔵からは、四天王像も浅草寺に移されました。
そのうちの広目天と持国天が安置されていたのが二天門。
残念ながら、東京大空襲で焼失してしまったのだといいます。