1185年(元暦2年)、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼした源義経は、平宗盛父子を護送し鎌倉に凱旋しようとしますが・・・
兄の頼朝は、義経が鎌倉に入ることを許しませんでした。
その義経が逗留していた満福寺で弁明のために書いたのが腰越状です。
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満福寺で頂いたリーフレットに載せられていた「腰越状」のあらすじです。
源義経おそれながら申し上げます気持は、鎌倉殿のお代官の一人に撰ばれ、天皇の命令のお使いとなって父の恥をすすぎました。
そこできっとごほうびをいただけると思っていましたのに、はからずも、あらぬつげ口によって大きな手柄もほめてはいただけなくなりました。
私、義経は、手柄こそたてましたが、ほかに何も悪いことを少しもしてはいませんのに、おしかりを受け、残念で涙に血がにじむほど、口惜しさに泣いています。
あらぬつげ口に対し私のいいぶんすらおきき下さらないで、鎌倉にもはいれず、従って日頃の私の気持ちもおつたえできず、数日をこの腰越でむだにすごしております。
あれ以来、ながく頼朝公のいつくしみ深いお顔にもおあいできず、兄弟としての意味もないのと同じようです。
なぜ、かようなふしあわせなめぐりあいとなったのでしょう。
亡くなられた父のみたまが、再びこの世にでてきて下さらないかぎり、どなたにも私の胸のうちの悲しみを申し上げることもできず、またあわれんでもいただけないのでしょう。
あの木瀬川の宿で申し上げました通り、私は、生みおとされると間もなく父は亡くなり、母にだかれて、大和国宇田の郡龍門の牧というところにつれてゆかれ、一日片時も安全な楽しい日はなかったのです。
その当時、京都も動乱がつづき、身の危険もあったので、いろんな所へかくれたり、遠い国へも行ったり、そしていやしい人たちまでにも仕えて、何とかこれまで生きのびてきました。
忽ち、頼朝公の旗揚げというめでたいおうわさに、とび立つ思いで急いでかけつけましたところ、宿敵平家を征伐せよとのご命令をいただき、まずその手はじめに義仲を倒し、つぎに平家を攻めました。
ありとあらゆる困難に堪えて、平家を亡ぼし、亡き父のみたまをおやすめする以外に、何一つ野望をもったことはありませんでした。
その上軍人として最上の高官である五位ノ慰に任命されましたのは、自分だけでなく源家の名誉でもありましょう。
義経は野心などすこしもございません。
それにもかかわらず、このようなきついお怒りをうけては、この義経の気持ちを、どのようにおつたえしたなら、わかっていただけるのでしょうか、
神仏の加護におすがりするほかないように思いましたので、たびたび神仏に誓って偽りを申しませんと、文書をさしあげましたがお許しがありません。
せめて、あなたのおなさけによって義経の心のうちを、頼朝殿にしらせていただきたいと思います。
うたがいがはれて許されるならば、ご恩は一生忘れません。
元暦二年五月 日
源義経
進上因幡前司殿
※因幡前司は頼朝の側近大江広元のこと。
📎『吾妻鏡』が伝える腰越状
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腰越状を書いた義経でしたが、頼朝の許しはなく、再び宗盛父子を護送して京へ引き返すこととなります。