The Same Moon Cafe -6ページ目

The Same Moon Cafe

どこにいようと見上げる月はいつでも優しく微笑んでいる


名古屋は年寄りのマナーが悪いと思います。

パチってるときにしばしば遭遇するのが、隣の客の顔に煙が掛かるのを気にせず咥え煙草で煙を吹かすジイサン・バアサン。

結構な頻度でそういう年寄りに遭うということは考えものです。

そのパチンコは年始のブログで「今年は幸先がイイ」なんて書いたのが祟ったのか、出口の見えない絶不調に悩まされています。

調子に乗っちゃァいけないってことですね。

昨日は1パチの地獄少女(甘)に5,000円遣って当たりなく、黄海2で漸く連荘を引き出すものの店の終了時間が迫って時短を諦めなくてはいけなくなる始末。

今日はその黄海に4,000円持って行かれて続投を断念。

その後、新規店舗を開拓しようと出掛けた先で昔懐かしい台を発見しました。

CRAフィーバー大夏祭りST5(甘)です。




初当たりのSTをスルーすると時短が付きませんが、STで当たれば文句なしに95回転の時短が付いてくるバージョンです。

あまりの懐かしさに釘見もそこそこに座ったんですが、黄海にヤラレた反動からか、すぐに初当たりを引くと 7連荘+12連荘であっという間に万発超え。

ジッタリン・ジンの曲を思い切り堪能した次第です。

もうかれこれ 5年前の機種だと思いますが、あの頃、派手に感じた演出が今となっては大人しく思えます。

パチンコの進化って結局は演出をどんどん派手にすることだとしたら、それは何か間違っているような気がします。

出玉感も以前の機種の方が良く思えますし、メーカーには本当にユーザーが望むものについてもっと真剣に考えて欲しいものですね。

それにしても楽しいひとときでした。





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沖縄の産業構造は歪(いびつ)だと指摘する声があります。

その理由は沖縄では製造業の割合が少ないというものです。

言われてみれば確かにそうだと思います。

沖縄で製造業というと大抵の場合は食品加工になるんじゃないでしょうか。

工業製品関連の製造業はあまり聞いたことが無いかもしれません。

沖縄は一次産業と三次産業で成り立っているようなもんです。
(三次産業の比率の高さは東京都に継ぐ)。

実はここにも米軍統治の影響があります。

沖縄戦の終結直後から沖縄では物々交換による取引で人々が生計を立てていました。

そこで米軍政府は軍票(B円)を通貨として物々交換の社会からの脱皮を図りました。

そして、この飽くまで代用通貨に過ぎないB円は1958年(昭和33年)、ドルに切り替えられます。

外資導入のためと言われています。

それと同時に沖縄における自由貿易が始まりました。

関税が掛からないので外国産の様々な商品が沖縄になだれ込んで来たんです。

なんぷー の記憶にもキャンベルの缶スープの味がしっかり刻み込まれてて、言ってみればそういう外国産の缶フーズで育ったようなもんだと思います。

チョコレートはハーシーズ…アイスクリームはブルーシール…そうそう、昔はよくマシュマロも食べたけどマシュマロって見なくなりましたね。

ファーストフードのA&Wが沖縄に進出して来たのは1963年と言われていますが、これは日本本土にケンタッキーフライドチキン(1970年)やマクドナルド(1971年)が出来るずっと前でした。

また、復帰前までの沖縄には石油販売会社はカルテックス社しかなく、それでガソリンスタンドに行くことを「カルテックスに行く」と行っていました。

これらは全て米軍政府が輸入に関して関税を掛けなかったが故に生じた事例です。

関税とは域内の産業を保護育成するための防御手段ですが、その障壁が設けられなかったために沖縄では二次産業が育つ間もなく三次産業ばかりが先行し、復帰後は観光産業の発展で更に肥大化してきたと言うことが出来ると思います。

言うなれば戦後沖縄の歴史は基地に苦しめられ、基地に依存して発展して来たんです。

その沖縄から基地が無くなると大変なことになるのは目に見えています。

沖縄における基地の経済波及効果は1千800億円とも言われていて、これが沖縄経済を支えているという現実があります。

基地は好むと好まざるに関わりなく、そこに住む人々にとって生活していく上での必要なピースになっているのを考えなければいけません。

メディアがよく取り上げる反戦・反基地運動も中核を担うのは本土からやってくる活動家で、沖縄の置かれた立場を熟慮せずに自らの主張をアピールする彼らは余計な存在以外の何者でもありません。

中国の軍事力が着実に成長している21世紀に米国は自国の国益のために(日本を守るというのは大義名分に過ぎない)これからも沖縄を必要とするでしょう。

日本政府も日米安保のために在沖米軍基地を必要とするなら沖縄は二国を相手にもっとしたたかになってもイイと思います。

年末に安倍首相が今後8年間に渡る500億円の振興予算を約束したことに関して、沖縄を悪く言うネット上の書き込みがありますが、沖縄が辿ってきた過去とこれからの将来を考えれば、そうした批判は見当違いです。

かつて琉球王国がそうであったように沖縄は独自の外交術を以て存在感を持ち続けて欲しいと思います。

他の46都道府県と異なり、それが出来るのが沖縄の稀有な立ち位置なんですから。








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今回は昭和天皇と沖縄の関わりについて書いてみたいと思います。

故・昭和天皇が戦後全国を訪問して回ったのは有名な話ですが、唯一行くことが出来なかったのが沖縄でした。

昭和天皇と沖縄の関わりで言えば、大正時代のまだ皇太子だったときに訪欧の途路で沖縄に立ち寄ったことがあるくらいです。

そのときの御召艦(天皇が乗った艦)の艦長を務めた沖縄出身の漢那大佐は郷土が生んだ英雄として戦前の沖縄で絶大な人気を誇ったと言われています。

結局、昭和天皇は沖縄にそれほどの関心は無かったのかもしれません。

敗戦から二年後の昭和22年9月 昭和天皇は宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてGHQの政治顧問 W.J.シーボルトへメッセージを伝えました。

シーボルトからワシントンの J.F.ダレス国務長官に宛てられた書簡には天皇の要望として
①米国が琉球諸島の軍事占領を継続することを望む。
②上記の占領は日本の主権を残したままにしておき25年~50年、もしくはそれ以上の長期租借によるべき。
③上記の手続は米国と日本の二国間条約によるべき、などとする内容がしたためられていました。
(このメッセージは沖縄県公文書館に収められている)。

なぜ、天皇が米国へ上記の要望をしたのかについては今もなお謎が残っているようですが、戦前のように急進的な勢力が国家の転覆を図ったり、或いは共産主義が日本に浸透するのを恐れていたことは事実のようで、そのために米国の力を借りようとしたんだと思います。

そして沖縄をその犠牲として差し出したんです。

天皇の提案は米政府を感激させました。

こうして沖縄は米軍の統治下に置かれ(沖縄を支配したのは米陸軍の中将で高等弁務官と呼ばれた)、銃で住民を家から追い出して家をブルドーザーで潰して基地を作っていくという、とんでもないことが起きていきました。

米軍統治下の沖縄では、住人が寝静まったところへ米兵が土足で侵入して女たちをレイプしたという話は枚挙に暇がありませんし、沖縄人が米兵を殺そうものなら重刑が言い渡されるのに、その逆だと無罪か軽犯罪程度の量刑で済むという人権が存在しない時代が27年続いたというのが現実だったんです。

その根源に昭和天皇の米国への要望がありました。

天皇は最後まで沖縄訪問を強い思いで望んでいたにも関わらず、遂に望みを果たすことが出来ませんでした。

でも、それが天命だったんだろうと思います。










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