前回の記事で韓国の民主化を盧武鉉からと書いたのは間違いなので訂正します。
正確には盧武鉉の前には金大中がいましたし、更にその前の金泳三が初の非軍事政権ということになります。
m(_ _)m
ところで、前回の記事を書いてから韓国及び朝鮮半島の歴史について書かれた本を改めて読みました。
「改めて」というのは昨夏にも図書館通いをして同種の本を何冊か読んだからです。
そこで、いささか大仰ではありますが、どんな経緯で日本と韓国が現在のような関係になったのかを なんぷ-の個人的認識としてここで纏めてみたいと思います。
話のスタートは19世紀の初め、李氏朝鮮の時代に遡ります。
(因みに李氏朝鮮は日本の室町時代初期~明治末期までの518年という長期に渡って朝鮮半島を支配した王朝で徳川幕府の265年と比べてもその長さは半端ない)。
日本と同じく鎖国体制を敷いていた朝鮮では、これまた日本と同じくキリスト教に対する弾圧も凄まじいものがありました。
1801年、垂簾聴政(幼い国王に変わって皇太后が政治を執り行うこと)をしていた貞純王后が徹底的なキリスト教弾圧を命じました。
これを辛酉教難と言います。
このとき国教である儒教に対抗すると見なされた実学の研究者も粛清され、朝鮮では西洋の学問や文化に触れる機会が全く無くなってしまいました。
以降、再び西洋に触れることができるようになるまでには80年という期間が必要になり、このタイムロスが朝鮮に大きな痛手をもたらすことになるのです。
さらに政治的な背景が拍車をかけていきます。
1800年に李氏朝鮮第23代王純祖はわずか10歳という若さで即位し、12歳で純元妃を迎えると14歳で親政(王が自ら政治を執り行うこと)を行いますが、すぐに純元妃の父金祖淳が実権を握るようになり安東金氏による勢道政治(王の外戚による政治)が始まりました。
李氏朝鮮の政治体制は国王を頂点に戴きながら、実務をこなすのは科挙という今で言う国家公務員試験をパスした両班たちに委ねられていました。
チャングムの誓いやトンイなど韓流時代劇でもお馴染みかもしれませんが、王宮の前に座り込んで「どうか私たちの願いを聞き入れてください、王さま」と嘆願するあの者たちです。
李氏朝鮮は軍事力をほとんど持たない徹底した文治国家だったせいか、王権が意外と弱く官僚が幅を利かせる国でした。
李氏王朝の成立当初は、この統治機構も有効だったのかもしれませんが、両班たちがすることと言えば互いに反目する宗派同士で議論し(因縁のつけ合いとも言う)、勝った方が重要な役職を独占する代わりに負けると容赦なく追放されるのがオチで、次第にエスカレートする勢力争いはときに血を血で洗い流す凄惨な場面もあったようで、両班の処遇は王の頭を悩ます問題にもなっていきました。
(机上の空論ばかりを振りかざす不毛な論争がやがて実用的な学問を重視する実学を登場させるが、それが粛清されたのは前述した通りである)。
そこへ持って始まった安東金氏の勢道政治は王を単なる操り人形に過ぎないところまで貶めてしまったため、両班になるための賄賂収受や両班による民衆からの土地財産の搾取や収奪が後を絶たず、1811年の洪景来の乱や1862年の壬戌民乱といった社会的な混乱を招きます。
安東金氏は続く憲宗王と哲宗王にも妃を送り込み59年に渡って実権を欲しいままにし、そうして民衆の生活苦と社会の混乱を尻目にこの世の春を謳歌したのです。
(特に憲宗が跡継ぎを作らずに22歳で死去した際には王の家系に繋がる者の中から木こりをしていた元範を連れてきて王に据えるという暴挙までして勢力維持に躍起だった)。
変化が訪れたのは、やはり33歳の若さで後嗣のないまま哲宗が死去したときでした。
動いたのは李昰応という人物です。
李昰応は次王の任命権を持っていた神貞王后と謀って、1863年次男の命福を李氏朝鮮第26代王高宗に就けることに成功し、自らは興宣大院君という摂政に就きました。
ここに安東金氏の勢道政治は一掃され、大院君による王威回復の政治が始まります。
でも、それは時代の流れを反映するものではありませんでした。
朝鮮の外では1840年に起きたアヘン戦争の結果として清が南京条約(不平等条約)を結ばされ、1853年のペリー艦隊の浦賀来航で大騒ぎした徳川幕府も西洋の開国要求に応じざるを得なくなっていく中で、薩摩藩はイギリス艦隊と戦った薩英戦争に於いて、長州藩もイギリス・フランス・オランダ・アメリカの四ヵ国連合と戦った下関戦争で西洋の力を知り、尊王攘夷の考え方を改めて西洋の侵略に脅かされることなく独立を保つ近代国家の建設へ進むようになり、1868年の明治維新を迎えるのです。
残念ながら朝鮮にはそうした動きはありませんでした。
それどころか大院君の治世方針は衛正斥邪(尊王攘夷の朝鮮版)を頑なに守り、儒教を徹底するという旧式の体制を強化するものでした。
そのため1866年に丙寅教難と呼ばれるキリスト教弾圧で9人のフランス人宣教師を処刑し、8,000人に及ぶ信者を殺戮しています。
さらに同年、通商を求めて来航したアメリカ商船ジェネラル・シャーマンが奪略などの乱暴を働いたことに腹を立てた民衆が同船を襲って、これに火を放って沈め乗組員を全員殺害するジェネラル・シャーマン号事件が発生しました。
さっそくフランスは極東艦隊を派遣し(丙寅洋擾)、1871年にはアメリカ艦隊もやって来ましたが(辛未洋擾)、驚くことに朝鮮は力でフランス艦隊を撃退し、アメリカの賠償要求も最後まで撥ね付けて諦めさせたのです。
もし、このとき西洋の力を正しく認識していれば、その後の日本との関わりは全く違ったものになっていただろうと思います。
しかし、現実にはそうはなりませんでした。
それでも朝鮮内部には異なる勢力から開国の動きが出てきます。
それは大院君が高宗の妃に招いた閔妃によってもたらされました。
閔妃は没落した宗族の出身だったので大院君は安心したのかもしれませんが、17歳で輿入りした才気煥発な彼女は22歳のときに大院君を追放して実権を握るのに成功します。
(現代の韓国や北朝鮮でもそうだが、朝鮮では父系血族が絶対的な存在としてあるために女性が結婚しても身分は父系血族に属するものと考えられて姓を変えることはない。宗族への忠孝は何よりも大切なものだったので閔妃の実権掌握が閔氏一族に恩恵をもたらしたのは言うまでもない)。
そんなとき日本の軍艦雲揚が江華島から砲撃される江華島事件が起こりました。
そもそも日本は明治新政府が樹立されてから朝鮮に国書を送っていましたが、大院君は書に「皇」や「勅」といった文字が使われていることを理由に国書の受け取りを拒否し続けていました。
清の冊封を受けて華夷秩序の体制下にあった朝鮮は「中国こそが世界の中心であり、そこから遠いほど文化が遅れた野蛮な国になるので、劣等な民族には優秀な民族が優れた文化を教えなければならない」と唱える中華主義の影響下で「我こそは最も忠実な臣下にして優等な民族である」という小中華主義に囚われていたのです。
中国皇帝だけが許される文字を野蛮な日本が使うのは以ての外だとして国書の受け取りを拒否したわけです。
ただ、日本としては清に従属する朝鮮を早く自立させたい意向を持っていました。
それが国家の安全を保障する担保になると考えたからです。
これは後の1890年に第一回帝国議会が開かれたときに山縣有朋首相が「国家の独立と自衛の道には二つの方策があり第一には主導線(国境線)を守護すること、第二は利益線(国境の安危に関わる外側の区域)を保護することである」という施政方針演説で明らかにされている通りです。
この利益線が朝鮮半島を指すのは言うまでもありません。
江華島事件は国書の受け取りを巡って交渉が進展せずヤキモキしていた日本にとって、またとない機会になりました。
事件の謝罪と開国を要求した交渉で両国は日朝修好条規(江華島条約ともいう)を締結したからです。
朝鮮にとって初となる近代条約は、国際法規に通じた人材が全く無かったこともあり、裁判権や関税自主権などで朝鮮に不利な不平等条約でした。
清や江戸幕府が同じように不平等条約を結ばされた事例から学ぶ時間的猶予はあったはずですが、辛酉教難で開明的な人物を徹底的に粛清して以来、外国と関わる全てのものを排斥し続けてきた弊害が現れたとも言えます。
この条約を皮切りに朝鮮はアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどとも条約を結んでいくことになりますが、いずれも不平等条約だったことに変わりはありませんでした。
(つづく)
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