1884年12月の甲申政変が失敗に終わった翌年4月、日本は清国と天津条約を結びます。これは日本と清国は双方とも朝鮮から撤兵すること、今後出兵するときにはお互い事前に連絡することを謳った内容でした。そこには何とか清国の影響力を排除したい日本の思惑が取れて見えます。それだけ日本は重度の事大主義に取り憑かれた朝鮮に強い焦りを持っていたと言えるかもしれません。
その頃、日本海に浮かぶ朝鮮領土の巨文島が突然イギリス海軍に占領される巨文島事件が起こりました。ここで簡単に帝政ロシアの南下政策に触れておきます。ロシアは1860年の北京条約で清国から日本海に面した沿海州を獲得してウラジオストクを建設すると、西においては1884年アフガニスタンへ侵攻してパンジェ紛争を引き起こすなど、活発に世界規模で領土を拡げる動きを見せていました。そのロシアの次の狙いと目されたのが朝鮮の元山です。イギリスはそうしたロシアの動きを許してはならないと先手を打って巨文島へ艦隊を派遣したのでした。興味深いのはイギリスは日本と清国へは占領を通知したものの朝鮮には全く通知せず、清国もまた朝鮮に情報を伝えなかったことです。当時の国際社会は朝鮮を清国の属領であって独立した国家と見なしていなかったからでした。このイギリス海軍の占領は1887年まで続きました。
さて、ここで話を朝鮮に戻します。甲申政変の後片付けが済んで政権の座に返り咲いた閔妃は、どうやら清国にも愛想が尽きたようで、あろうことか、今度はロシアと密約を交わして保護を受けようとします。自国の領土を狙っている勢力と手を結ぶなんて狂気の沙汰としか言いようがありませんが、権力に固執する彼女には自国の運命を思う気持ちはこれっぽっちも無かったのでしょう。ただ、二度チャンスがあったロシアとの秘密交渉は、最初は重臣たちによって阻まれ、二度目は秘密が清国にバレて実現しなかったのは朝鮮にとって幸いなことだったと思います。でも、これがきっかけで朝鮮は日本・清国・ロシア三国が三つ巴の策略を張り巡らすステージになっていきます。
ところで、当然のことながら臣下の裏切りは宗主国だった清国を激怒させました。清国は閔妃に対抗させるため大院君を朝鮮に戻し、さらに袁世凱を朝鮮総理交渉通商事宜というポストに就けました。袁世凱が事実上、国王の上に立つ体制です。それでも閔妃はロシアとの関係構築に励み、そのたび清国に邪魔される展開が続きます。この間、民衆の生活は激しくなる両班たちの収奪によってますます苦しくなっていきました。
1860年、朝鮮で東学という新しい宗教が誕生します。単純で分かり易い救いの教えと平等思想で東学は閔妃政権下で苦しむ農民たちの心をたちまちの内に捉えていきました。でも李氏朝鮮は東学を異端とみなしてこれを弾圧し、両班たちは取り締まりを名目に収奪を行ったと言います。
1894年、全羅道古阜郡で郡守の悪政に耐えかねた農民たちが立ち上がって叛乱を起こします。この甲午農民戦争は主導した全琫準や参加した農民たちの多くが東学の信徒だったので東学党の乱とも言われています。朝鮮政府は800人ばかりの兵力で叛乱を鎮めようとしましたが、逆に撃破されて全羅道の道都全州への進撃を許してしまいます。当初4,000人と言われた農民兵力は進撃の間にどんどん膨れあがって10,000人を超えるまでになりました。そして、その勢いでとうとう全州を占領したのでした。
でも情けないことに政府にはどうすることもできません。ついに政府は清国に助けを求めることにしました。国内の不祥事の解決を国外に求めるのは考えられないことですが、それしか方法が無かったからです。要請を受けて清国の李鴻章は2,800人の兵力を朝鮮に送ります。清国は天津条約に従って日本にそのことを通告しました。日本では伊藤博文が内閣総辞職の窮地に立たされているときでもあり、清国は日本の派兵が遅れるだろうと考えましたが、陸奥宗光外相が早くから出兵の可能性に言及するなど下準備があった日本は、清国の通告に対して素早く返答して8,000人規模の混成旅団を朝鮮半島に上陸させました。
日本軍の派兵名目は「朝鮮在留日本人の保護」でした。でも、これは飽くまで表向きの看板で、真の狙いはこれを機会に李氏朝鮮を清国から自立させることにありました(その方針は最初から首尾一貫している)。そのため今回は清国との一戦も辞さない覚悟で臨みました。混成旅団を差し向けたのはそれが理由です。
さて、話は戻って全羅道の全州です。清国と日本が軍を送ったことを聞いて驚いたのは農民軍だけでは無かったようです。実は清国に応援を要請することについては政府内にも異論があり、それに反対した閔泳駿は全州で農民軍と対峙していた国軍に急いで農民軍と和議を結ぶように命じます。農民軍も政府に27ヵ条の弊政改革案を渡して撤収することが決まりました。叛乱者たちが罰せられることはなく、このあと全羅道では農民たちの自治が始まったと言います。汚職官僚の圧政に怯える日々からの解放、と言えば聞こえはイイのですが、閔妃一族の勢道政治は朝鮮の政治体制を機能しなくなるところまで堕落させたということです。
朝鮮半島は戦禍に巻き込まれようとしていました。
(つづく)
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