The Same Moon Cafe -4ページ目

The Same Moon Cafe

どこにいようと見上げる月はいつでも優しく微笑んでいる


TPPは難しくてよく理解らないという人も多いと思いますが、なんぷ-に言わせればアメリカに都合がイイ貿易体制を作りましょうと言う話です。アメリカの製品が流通しやすい形を作ること。これがアメリカの狙いです。

発車間際の電車に慌てて飛び乗っておきながら、今さら「やっぱ降りるゎ」とも言えないでしょうし、覚悟が必要な未来になるかもしれないと思います。




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1884年12月の甲申政変が失敗に終わった翌年4月、日本は清国と天津条約を結びます。これは日本と清国は双方とも朝鮮から撤兵すること、今後出兵するときにはお互い事前に連絡することを謳った内容でした。そこには何とか清国の影響力を排除したい日本の思惑が取れて見えます。それだけ日本は重度の事大主義に取り憑かれた朝鮮に強い焦りを持っていたと言えるかもしれません。

その頃、日本海に浮かぶ朝鮮領土の巨文島が突然イギリス海軍に占領される巨文島事件が起こりました。ここで簡単に帝政ロシアの南下政策に触れておきます。ロシアは1860年北京条約で清国から日本海に面した沿海州を獲得してウラジオストクを建設すると、西においては1884年アフガニスタンへ侵攻してパンジェ紛争を引き起こすなど、活発に世界規模で領土を拡げる動きを見せていました。そのロシアの次の狙いと目されたのが朝鮮の元山です。イギリスはそうしたロシアの動きを許してはならないと先手を打って巨文島へ艦隊を派遣したのでした。興味深いのはイギリスは日本と清国へは占領を通知したものの朝鮮には全く通知せず、清国もまた朝鮮に情報を伝えなかったことです。当時の国際社会は朝鮮を清国の属領であって独立した国家と見なしていなかったからでした。このイギリス海軍の占領は1887年まで続きました。

さて、ここで話を朝鮮に戻します。甲申政変の後片付けが済んで政権の座に返り咲いた閔妃は、どうやら清国にも愛想が尽きたようで、あろうことか、今度はロシアと密約を交わして保護を受けようとします。自国の領土を狙っている勢力と手を結ぶなんて狂気の沙汰としか言いようがありませんが、権力に固執する彼女には自国の運命を思う気持ちはこれっぽっちも無かったのでしょう。ただ、二度チャンスがあったロシアとの秘密交渉は、最初は重臣たちによって阻まれ、二度目は秘密が清国にバレて実現しなかったのは朝鮮にとって幸いなことだったと思います。でも、これがきっかけで朝鮮は日本・清国・ロシア三国が三つ巴の策略を張り巡らすステージになっていきます。

ところで、当然のことながら臣下の裏切りは宗主国だった清国を激怒させました。清国は閔妃に対抗させるため大院君を朝鮮に戻し、さらに袁世凱を朝鮮総理交渉通商事宜というポストに就けました。袁世凱が事実上、国王の上に立つ体制です。それでも閔妃はロシアとの関係構築に励み、そのたび清国に邪魔される展開が続きます。この間、民衆の生活は激しくなる両班たちの収奪によってますます苦しくなっていきました。

1860年、朝鮮で東学という新しい宗教が誕生します。単純で分かり易い救いの教えと平等思想で東学は閔妃政権下で苦しむ農民たちの心をたちまちの内に捉えていきました。でも李氏朝鮮は東学を異端とみなしてこれを弾圧し、両班たちは取り締まりを名目に収奪を行ったと言います。

1894年、全羅道古阜郡で郡守の悪政に耐えかねた農民たちが立ち上がって叛乱を起こします。この甲午農民戦争主導した全琫準や参加した農民たちの多くが東学の信徒だったので東学党の乱とも言われています。朝鮮政府は800人ばかりの兵力で叛乱を鎮めようとしましたが、逆に撃破されて全羅道の道都全州への進撃を許してしまいます。当初4,000人と言われた農民兵力は進撃の間にどんどん膨れあがって10,000人を超えるまでになりました。そして、その勢いでとうとう全州を占領したのでした。

でも情けないことに政府にはどうすることもできません。ついに政府は清国に助けを求めることにしました。国内の不祥事の解決を国外に求めるのは考えられないことですが、それしか方法が無かったからです。要請を受けて清国の李鴻章は2,800人の兵力を朝鮮に送ります。清国は天津条約に従って日本にそのことを通告しました。日本では伊藤博文が内閣総辞職の窮地に立たされているときでもあり、清国は日本の派兵が遅れるだろうと考えましたが陸奥宗光外相が早くから出兵の可能性に言及するなど下準備があった日本は、清国の通告に対して素早く返答して8,000人規模の混成旅団を朝鮮半島に上陸させました。

日本軍の派兵名目は「朝鮮在留日本人の保護」でした。でも、これは飽くまで表向きの看板で、真の狙いはこれを機会に李氏朝鮮を清国から自立させることにありました(その方針は最初から首尾一貫している)。そのため今回は清国との一戦も辞さない覚悟で臨みました。混成旅団を差し向けたのはそれが理由です。

さて、話は戻って全羅道の全州です。清国と日本が軍を送ったことを聞いて驚いたのは農民軍だけでは無かったようです。実は清国に応援を要請することについては政府内にも異論があり、それに反対した閔泳駿は全州で農民軍と対峙していた国軍に急いで農民軍と和議を結ぶように命じます。農民軍も政府に27ヵ条の弊政改革案を渡して撤収することが決まりました。叛乱者たちが罰せられることはなく、このあと全羅道では農民たちの自治が始まったと言います。汚職官僚の圧政に怯える日々からの解放、と言えば聞こえはイイのですが、閔妃一族の勢道政治は朝鮮の政治体制を機能しなくなるところまで堕落させたということです。

朝鮮半島は戦禍に巻き込まれようとしていました。

(つづく)





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朝鮮を開国させた日本がまず手始めにしたのは軍隊を進駐させることでした。と、書くと「なるほどなァ」と頷く人もいそうですが、実際にはそんなことはなかったので悪しからず。

1873年という年は朝鮮で閔妃が政権を握った年ですが、日本では征韓論を唱えた西郷隆盛らが失脚して政府中央を追い出された年でもありました。彼らは郷里で新政府方針に不満を持つ士族たちの期待を集める存在になり、やがて1874年に江藤新平の叛乱軍が佐賀で蜂起すると、その合図を待っていたかのように熊本、福岡、山口で叛乱が相次ぎ、それは西郷隆盛を首班にした1877年の西南戦争まで続きます。

この一連の戦いでは初めて徴兵制度で集められた国軍が投入されました。しかし徴兵された兵力だけでは足りず旧士族の募集を行わざるを得ませんでしたから、当時の日本は朝鮮半島に本格的に出兵できるだけの兵力をまだ有していなかったということになります。それに何よりも岩倉具視大久保利通木戸孝允といった政府の主要メンバーが征韓論を否定したということは、日本政府には朝鮮を武力で従わせる意志が無かったことを意味していました。

そういうわけで、朝鮮については日本が主導しながら自立を促す方針が取られました。

その朝鮮は開国直後には早くも第一次修言使を派遣するなど活発に人材を送って、急速に近代化が発達する日本の実情を肌で学ばせようとしましたが、それを受け入れる日本も外務大臣井上馨が朝鮮の置かれている状況と取るべき道を説き、福沢諭吉に至っては私邸に留学生を住まわせて面倒を見るなど惜しみない援助をしています。やがて、その中から開化派と呼ばれる親日派の人々が現れるようになりますが、その顛末についてはもう少し後で触れたいと思います。

ところで、人材の受け入れと同時に日本が朝鮮に対して行ったのは、朝鮮が近代化された自前の軍隊を持てるよう新式の小銃を提供すると共に新しい部隊の編成を薦めて、これに訓練を施し始めたことでした。(朝鮮には旧式装備の兵力が全軍でも二千程度しかなかったと言われている)。朝鮮はその薦めに応じて別技軍という部隊を新設して、これを親衛隊である武衛営に編入しました。別技軍には新しい装備と制服が与えられただけでなく、給与も待遇されたので旧軍の兵士たちは面白くなく感じていました。

そこへ、ある事件が起こります。それは国庫の財政難を理由に旧軍兵士への俸給が滞り(閔妃の贅沢が原因だった)、ようやく13ヶ月後に支給された俸給米が砂などで水増しされたモノだったため、怒り狂った兵士たちが米を横領しようとした閔氏に連なる配給係の官吏を暴行したことが発端になった壬午軍乱と呼ばれる暴動です(1882年)。この背後には政権奪取を目論んだ大院君の教唆があったとも言われています。兵士たちの暴動は閔妃一族の政治に苦しむ首都漢城(ソウル)の民衆も巻き込んで日本公使館を襲い別技軍顧問の堀本礼造陸軍工兵少尉を殺害、さらに王宮を占領しました。辛くも何とか逃げおおせた花房義質日本公使や閔妃は無事でしたが、叛乱軍は大院君を担ぎ出し、これを承知した大院君によって事態は収拾され落ち着くはずでした。

ところが、そうはならなかったのはクーデター発生を聞きつけた清国が素早く対応して馬建忠率いる三千の兵力で漢城に駆け付けたからでした。そして馬建忠は大院君を捕らえて天津に連行してしまったんです。これは、それまで朝鮮の事態を静観していた清国が宗主権を発動して内政干渉し朝鮮を事実上の保護国に置こうとするものとなり、逆に日本にとってはせっかく清国からの自立を促して軌道に乗り始めたところを台無しにされた以外の何物でもありませんでした。
(強い態度で臨んだ清国の対応には、これより三年前の「琉球処分(日本の琉球併合)」も影響したのかもしれない。ただし、そのときは琉球の親中派から直訴を受けて清国は日本に抗議してはみたものの、交渉を途中で打ち切って琉球を取り戻すのを諦めている)。

しかも、なお悪いことに閔妃が態度を変えて親中派へ転向してしまいます。その結果、朝鮮は清国との間に不平等条約である清国朝鮮商民水陸貿易章程を結んで改めて清国の属国であることを確認し、漢城は袁世凱指揮の清国軍の占領下に置かれることになりました。そういう事態になっては、もはや日本には為す術べが無かったのが実情と言ってイイでしょう。

でも、朝鮮には日本の援助を当てにして朝鮮の近代化を成し遂げようと考える若い両班たちの勢力がいました。開化派と呼ばれた彼らは朝鮮の近代化を目指していたものの、清国の介入に伴って次第に親中へ傾斜して行き、事大党と呼ばれるようになります。事大とは言ってみれば「長いものに巻かれろ」、もしくは「事なかれ」を指していると理解してもイイと思います。それに対して飽くまでも清国の影響下から脱して近代化を目指すグループがあり、金玉均をリーダーとする彼らは独立党を形成しました。独立党は日本の明治維新をモデルケースに朝鮮の近代化を図ろうとして日本の援助を受けていました。でも、そうした動きは親中派が大勢を占める状況下にあって嫌がらせや非難の対象となり、独立党は孤立していきました。そして、遂にクーデターを計画するに至ります。

金玉均は新たに公使に着任した竹添進一郎に相談して日本の後押しが得られるかを確認します。ちょうど上手いことにベトナムで起きた事件を契機に清仏戦争が起こり、漢城駐屯の清国軍は兵力を半減させていたときでした。そこで竹添公使は大見得を切って「我が兵力は150人だが、1,500人の清国軍の相手は問題ない」と金玉均に返答します。竹添は信頼できる相手ではありませんでしたが、金は日本の井上や福沢とも連絡を取った上で実行を決意します。

こうして1884年末、金玉均らの独立党がクーデターを起こして政権を掌握するのに成功します。彼らは早速、古いしきたりを廃止する布告を出しますが、閔妃と内通した清国軍の攻撃が始まると竹添公使が逃げ腰になって金を見捨ててしまい、朝鮮の近代化を目指した甲申政変はわずか三日で頓挫してしまいました。その結果、何とか日本へ亡命できた金玉均他数名は別にして、多くのメンバーが殺害されて独立党は瓦解してしまい日本は朝鮮における足場を完全に無くしたのでした(このときの戦いで日本軍は組織的な戦闘を展開して数に勝る清国軍を相手に奮闘した。日本軍の死者1人、負傷者4人に対して清国軍は53人の死者を出したという資料がある。日本軍の指揮官は戦闘を続けて援軍を待つよう進言したが、それを竹添は一喝して斥けたという)



追記:
朝鮮初の新聞「漢城旬報」が創刊されたのは1880年のことでした。これは後に「漢城周報と改めて1888年まで発刊されましたが、注目したいのは福沢諭吉がこの新聞に自身の門下から人と日本で鋳造したハングル文字活版を送ったことです。ハングル文字は1443年、李氏朝鮮第4代王世宗の事業として完成したものの、漢字を至上主義とする両班たちによって庶民の文字と軽蔑されました。その庶民も識字率が低かったため、ハングルは事実上、歴史から抹殺された存在になってしまいました。それを政府の公刊であった漢城周報で復活させた意義は大です。福沢は、ひら仮名の発明で日本が漢字一辺倒の古い因習から解き放たれたのと同じように、ハングルをひら仮名のように使うことで中国隷属から解放されることを朝鮮に求めたのでした。

(つづく)






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