The Same Moon Cafe -3ページ目

The Same Moon Cafe

どこにいようと見上げる月はいつでも優しく微笑んでいる


実は清国が滅亡した理由は西太后のせいでも何でもありません。意外に思われるかもしれませんが、それは人口の急激な増加だったんです。康煕帝雍正帝乾隆帝のいわゆる三世の春時代が清国の絶頂期だったということはすでに書きましたね。中国の人口は康煕帝(1654-1722年)の時代には一億人に達していましたが、乾隆帝(1735-1795年)の治世中には何と三億人まで膨れあがってしまいました。当然のことながら人口が増えれば山林荒野を開墾して田畑も増える‥‥はずでした。でも、増えたのは二倍程度。これでは増えた人間を養えません。食糧難が発生します。それだけではありません。政府の税収が悪化しました。にも関わらず、政治を意のままに操る西太后は贅沢な暮らしを満喫するわ、官僚たちも汚職に励むわで、虐げられた人々の鬱憤は爆発する矛先を求めていました。そこへやって来たのがイギリス人やフランス人などの外国勢でした。攘夷、つまり外国人排斥運動が始まります。統治能力が低下した政府はこれを抑えきれません。清国は空中分解寸前にありました。西太后はその死を早めたのです。

さて、この頃になってようやく
「このままじゃイカン!」
と遅まきながら危機感を募らせた人々が集まって洋務運動と呼ばれた清国式の近代化が始まりました。その主立った面々は
①太平天国の乱鎮圧で湘軍を率いた曾国藩
②同じく淮軍を率いた李鴻章
③同じく楚軍を率いた左宗棠
④科挙を三番で合格した秀才張之洞
でした。洋務運動は30年かけて進められましたが、そのスローガンは中体西用、つまり
「我々は腐っても偉大なる中国皇帝の臣下でアルよ。西洋の猿まねなどできるものか。なァに、中国の体制は西洋より優れているのだから変える必要ナ~シ。ただ、西洋から先進の軍事技術をちょいと頂きさえすれば我々は再び復活できるアルね」
というものでした。何たる傲慢(笑)。長年東アジアの盟主として君臨し続けたプライドが時代の変化を読む知覚を麻痺させ、上辺だけの近代化を目指そうと言うのだから話になりません。日本が政治体制、社会制度、教育制度、司法制度、憲法の制定などは言うに及ばず、庶民レベルでも例えば
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする
と自嘲したくらい生活様式を一変させたのとは対象的です。産業革命だけは清国が先行してたようですが、それを生かす環境は整っていませんでした。結果、洋務運動は30年後に失敗が明らかになるのです。30年後とは日清戦争です。つまり、この30年が両国の明暗を分けたということになります。

ところで、明治新政府が李氏朝鮮に新政権成立告示文書なる国書を送ったのに朝鮮が受け取りを拒否した一件でのこと。最終的に日本は江華島事件という砲艦外交で半ば強制的に朝鮮を開国させたわけですが、これと並行して日本は清国とも条約締結に向けた交渉をしていました。「将を射んとすれば馬を射よ」というわけです。日本は清国へ
「日本だけで西洋に立ち向かうのは厳しいので一緒に協力しようよ」
と話を持ちかけて交渉がスタートします。そして翌1871年9月に日清修好条規が結ばれました。

この条約が締結された直後のことですが、琉球宮古島の島民が海で遭難して台湾に流れ着いたところを台湾の土着民族に殺害される事件が起こりました。日本は清国に抗議します。
「我が国民が台湾人に殺害された件について、貴国はどう責任を取るつもりか?」
これに対する李鴻章の答えは
「台湾は化外の地なので責任は取れない」
でした。化外とは清国の統治が及ぼないという意味です。事実上、領土ではないと宣言したようなものです。これ、李鴻章としては
「格下の日本が賠償金だと?まともに相手なんぞ出来るものか」
と、考えたのかもしれません。でも、日本にしてみれば
「ふむ、台湾が清国の領土じゃ無いなら日本が何をしてもイイんだな」
となるわけで、これが台湾出兵につながっていきます。

1874年(㍾7年)西郷従道が従えた 3,000人の兵力が台湾に上陸して事件が起きた地域を制圧します。日本はこの機会に台湾の領有化を考えて兵力の半数は移住を希望する士族の三男坊などで編成したと言います。台湾への日本軍出兵を知った李鴻章は前言を翻して激しく抗議してきました。そこでイギリスを仲介役にして大久保利通恭親王の間で和平交渉が行われます。すると、ここで李鴻章が急に大人しくなって、恭親王に日本の条件を呑んで兵を引き揚げてもらった方がイイと進言します。こうして清国は台湾出兵を日本の保民義挙、つまり、日本は自国民を守るために正しいことをしたと認めて賠償金の支払いに応じることになりました。李鴻章の態度の変化は日清両国海軍の戦力差が原因でした。清国には日本海軍の旗艦龍驤と甲鉄艦扶桑ような鉄鋼で防御された軍艦がなかったので李鴻章は日本と衝突しても勝てる見込みはないと考えたんです
「日本に頭を下げる屈辱を今は耐えてやる。でも、必ず日本をひれ伏せる艦隊を造ってやる」。
その思いが定遠級二隻を中心にした北洋水師(水師は艦隊の意味)建設の原動力になっていきます。

もう一つ、注目したいのはこのとき清国は宮古島の島民を日本国民と認めたことです。李氏朝鮮と同じく清国との冊封関係にありながら、同時に薩摩の支配を受けていた琉球国の処遇は明治政府にとって頭を悩ます問題でしたが、これで日本への編入が前進した形になりました。1871年(㍾4)全国で廃藩置県が執行された折に琉球は鹿児島県下に置かれますが、翌72年に琉球藩を設置、尚泰王を他の元藩主たちと同じように華族とする措置を取ったあと1879年(㍾12)廃藩置県を通達、沖縄県と改めて尚泰王に首里城の明け渡しと東京移住を命じました。これは琉球処分と呼ばれています。このとき琉球王府内で大勢を占めていた親中派が清国に助けを求めます。清国の抗議で琉球帰属の問題が話し合われましたが、最終的に残ったのは沖縄本島以北を日本領土とし、南の宮古諸島や八重山諸島を清国領土とする案でした。でも、清国が調印を拒否して以降の交渉も途絶えたため、現在の国境線が確定しました。

琉球を失った清国はさらに阮朝越南、つまりベトナムも失うハメになります。1840年代から徐々にベトナムに浸透したフランスとの対決がついに避けられなくなり清仏戦争が始まります。この戦争に李鴻章は反対でした。福建水師が開戦早々フランス東洋艦隊に潰滅させられて西太后から北洋水師を出すように言われても
「日本に睨みを効かせるための艦隊を敗けると分かっている戦さに出すわけにはいきません」
と断ってしまいます。こんなことってある?実はこれが洋務運動の姿だったんですね。各閥がテンでバラバラに洋式新式の軍艦を買い漁ったはイイけれど、そこには戦略が無ければ統一された意思も無く、それぞれの首領が好き勝手に動かしていただけなんです。だから李鴻章は左宗棠が造った艦隊が海の藻屑となっても気にしませんでした。陸の戦いでは善戦することもありましたが、結局ベトナムから追い出された清国は1885年の天津条約で宗主権を放棄しました。琉球に続くベトナムの喪失が朝鮮へ強く固執する背景になったことが分かると思います。

ともあれ、近代艦隊の建設が着々と進んだ清国では、特に李鴻章の北洋水師の整備が優先的されて甲申政変(親日派のクーデター事件)翌年には「遠き日本を平定する」定遠、「遠き日本を鎮圧する」鎮遠の装甲艦(戦艦)就役するなどして次第に陣容を整えていきました。しかも配備されたばかりの新鋭艦2隻を長崎に寄こします。表向きは親善活動。でも実は
「ほれほれ、よォく拝むがよい。これが戦艦というモノでアルよ。お前たちには逆立ちしたって買えっこないだろうがな(笑)」
という示威活動。そこからさらにホントのところを探れば定遠級の船体を収めるドッグが清国には無く、長崎にしか無かったという事情がありました。ここにも洋務運動の欠陥が浮き彫りです。

定遠級の威容は確かに日本人を畏怖させました。これに対し、日本は甲申政変の後から海軍の増強に力を入れますが、なんせ貧乏所帯ゆえに巡洋艦を買うのがやっと。戦艦なんてとてもとても。日清戦争が勃発する前年の国会審議でも海軍予算が否決されてにっちもさっちもいかないような有り様でした。このときの様子を見かねた明治天皇が
「これを海軍のために遣ってやって欲しい」
とポケットマネーから30万円を出したほどです。これは建艦詔書と呼ばれていますが、天皇がそこまでするのならと全国からも200万円の義捐金が集まったそうです。それくらい日本の海軍整備は遅れていました。

尤も清国にしたって万事が順調というわけではありませんでした。むしろ実態を見るに深刻な状況だったとも言えました。ここで再び西太后の登場です。彼女は甲申政変が起こった年に頤和園の再建を命じます。アロー戦争で英仏軍が破壊したかつての名所を別荘として利用するためです。この費用には2,000万両以上かかり、さらにそこで催される西太后の還暦祝いは700万両以上かかると見積られました。
「西太后さま、国庫にはそんなお金がありません」。
「あら、何を言ってるの?北洋水師の予算があるじゃないの。それを遣いなさい」。
「しかし、それでは・・・」。
「李鴻章、誰のおかげで今の地位にいると思って?無駄口たたく暇があるならさっさと頤和園を建て直しなさい!」。
具体的なやりとりはともかく、己の楽しみにしか関心がない西太后のおかげで日本は救われました。清国がまともに予算を使っていれば170万両で買えた定遠級がもっと買えたはずでしたし、北洋水師が根拠地にしていた軍港威海衛の設備投資、艦隊の訓練なども充実したはずだからです。

さて、ここまで長いこと辿って日清両国は衝突の瞬間を迎えることになりました。兵力は日本が24万に対して清国63万。海軍は
連合艦隊 軍艦22隻 水雷艇24隻 計59,000㌧
北洋水師 軍艦22隻 水雷艇12隻 計42,200㌧
南洋水師 軍艦16隻 水雷艇 0隻 計19,000㌧
福建水師 軍艦10隻 水雷艇 1隻 計  9,700㌧
広東水師 軍艦30隻 水雷艇12隻 計14,000㌧
というもので陸海いずれにしても日本は劣勢でした。ただし、清仏戦争の場面がそうだったように日本の連合艦隊に対抗するのは北洋水師だけで後はみんな知らんぷり。というか北洋水師以外では給与の支払いもままならない状態で、南洋水師の軍艦3隻は食いブチを求めて北洋水師に寄生していたほど。頤和園再建の煽りで1888年以降~開戦までの6年間に新規購入された艦は無し。頼みの綱は定遠級の巨砲でした。対する日本は戦艦こそ持たないものの新鋭の巡洋艦8隻に搭載された速射砲が鍵を握っていました。日清戦争は、連射できなくても当たれば破壊力が大きい巨砲が有利か、あるいは威力は劣っても連射できる速射砲が有利なのか、という疑問に答えを出す戦いでもありました。陸軍兵力も同様に兵力で勝ってても頭数を寄せ集めただけの集団と、数に劣っても訓練と装備が充実した正規軍という違いがありました。次回からいよいよ日清戦争の経過に突入です!(笑)









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ちょっと考えたんですが、日清戦争に入る前に清国の置かれた状況を書こうと思います。それも当時を理解する上での大切なポイントですから。欧米列強の東アジア進出で存続した日本は多分に強運にも恵まれましたが、それなりに理由がありましたし、滅亡した清国と李氏朝鮮には幾つかの面白い共通点がありました。そういうところを押さえながら見ていくのも一興かと思います。



大阪夏の陣豊臣方が完全に滅亡した翌年の1616年、国の支配下にあった満州愛新覚羅ヌルハチ後金という国を建てたのがそもそもの始まりです。1636年、その息子ホンタイジ瀋陽を首都とする国の成立を宣言して皇帝に即位します。さらに1644年、次の皇帝順治帝のときに明国を滅ぼして北京を首都とすると、続く康煕帝雍正帝乾隆帝の三代に渡って三世の春と謳われて栄華を極めた絶頂期を迎えます。

清国は少数の満州民族が圧倒的多数の漢民族を支配するため、明国の制度を活用しました。科挙もその一つです。ということは特権意識まる出しの進士たち(※)が私腹を肥やすための汚職に励んだであろうことは容易に理解できると思います。実際、乾隆帝の晩年には和シンという軍機大臣が皇帝の個人秘書的立場を悪用して国家予算15年分相当の蓄財に励み、それを正そうとする者たちことごとく処罰しました。嘉慶帝が即位して間もなく発生した白蓮教徒の乱はそうした彼の重税に喘ぐ民衆が起こしたものでした。
※科挙に合格した官僚を李氏朝鮮では両班と呼びましたが、中国では進士と呼ばれました。

次の道光帝の治世になると、いよいよヨーロッパの帝国主義が清国に食指を伸ばしてきます。かの有名なアヘン戦争です。この一方的な侵略戦争は清国から大量の茶や陶磁器などを輸入していたイギリスが貿易赤字解消(!!)ためにインドで栽培したアヘンを清国に売りつけたことが原因でした。アヘン問題担当の欽差大臣に抜擢された林則徐は徹底的な撲滅を目指します。ちなみに欽差大臣というのは国が難事に直面したときに設けられた非常時の役職です。それだけ由々しき事態だと認識されていたわけです。林はアヘンを売買する商人たちの賄賂に目が眩みませんでした。それどころか、イギリスから没収したアヘンを燃やして処分するなど強硬な姿勢で取り締まっていきます。これに腹を立ててイギリス艦隊が暴れたのがアヘン戦争です。このときイギリス艦隊の襲来に驚いた清国は林に責任を押し付けて新疆に飛ばしてしまいました。

この林という人物はイギリスの書物世界地理大全を翻訳させるなど西洋を理解しようとも努めました。彼は左遷されるにあたってその翻訳本四洲志魏源という人に託します。魏源はそれを元に10年余りを費やして海国図志という書物を書き上げました。海国図志は残念ながら清国の人たちに理解されませんでした。でも、海を渡った日本で佐久間象山と弟子吉田松陰に大きな影響を与えました。ご存知かと思いますが、吉田の松下村塾の門下生には高杉晋作伊藤博文山縣有朋といった面々がいて、魏源が書いた夷の長技を師とし以て夷を制す(※)」は明治維新の原動力になっていったのです。
※外国の優れたところを取り入れて外国の侵略に対処しようという考え方。

アヘン戦争で清国が負けたというニュースは、その年の内に日本にも伝わって幕府に衝撃を与えました。それがよく分かるのが薪水給与令です。それに先立つ1825年、たびたび外国公使がやって来ては通商を求めたり、また英米の捕鯨船が薪や水を補給したりしては悶着を起こすことがあったので、幕府は異国船打ち払い令を公布しました。これは別名無二念打払令とも言って、要するに「日本沿岸に近づく外国船は問答無用で結構。片っ端から撃ちまくって追い払ってしまえ!」と諸藩に命じたわけです。それが清国敗戦を聞くや否や、直ちに撤回したのですから如何に慌てたかが手に取るようです(笑)。

清国では次の皇帝咸豊帝の治世になっても騒乱が絶えませんでした。それどころか、即位して間もなく太平天国の乱が起き、それを鎮圧できないでいる内に今度はアロー戦争と散々な目に遭います。

尤もこの時期は日本も多事多難でした。ペリーが脅しに来てムリやり日米和親条約を結ばされたり、病弱で短期に終わった将軍徳川家定の後継争いが持ち上がったり、そうした内憂外患を安政の大獄という強硬手段で乗り切ろうとした井伊直弼が真っ昼間堂々と桜田門外で斬り棄てられるなど、硬直化した体制が生み出すのはどこも一緒だということが分かります。

太平天国の乱はアヘン戦争の敗戦で莫大な賠償金を課された清国が民衆に重税をかけたのを背景に、キリストから啓示を受けたと主張する洪秀全が広めた土着のキリスト教徒が叛乱を起こしたものです。叛乱軍は中国の主要都市を次々と陥落させて15年以上も政府に抵抗し続けました。鎮圧にそれほどの年月を要したのは清国正規軍がアロー戦争にも兵力を振り向けなければいけなかった事情もありました。

そのアロー戦争は別称第二次アヘン戦争とも言われます。きっかけはアヘンを密輸していた清国船アロー号を清国当局が臨検して中国人船員を海賊容疑で逮捕したことでした。これにイギリスが噛みつきます。「アロー号は我が大英帝国の船だ。断わりもなしに土足で上がりこんで来て、しかも英国旗を引きずり降ろすとは言語道断!懲らしめてやる」。

実際はアロー号のイギリス船籍登録は数日前に切れていたので法的に清国の落ち度はありませんでした。でも、アヘン戦争の結果として締結された南京条約に不満があったイギリスは、何としてでも再び戦争を起こそうと考えてフランスと協同で出兵します。戦えば勝つに決まっているのは先の戦争で実証済み。正義もクソもありません。この事態に咸豊帝は都を逃げ出したので英仏軍は北京市内で思う存分、破壊と略奪を繰り広げました。それで清国は仕方なく天津条約を結んで降参しますが、英仏軍がいなくなると知らんぷり。そういうところが浅はかなんですね。再度の英仏軍侵攻を招いてもっと不利な北京条約を結ばされてしまいました。

咸豊帝は北京条約が締結された翌年に崩御します。まだ30歳という若さでした。その治世は内乱や戦争に明け暮れたストレス一杯のものでしたが、清国にとってホントの意味での厄禍が訪れたのはこのあとだったのではないでしょうか。

咸豊帝は亡くなる前に重臣たちから8人を選んで5歳の息子の後見人に指定しました。ところが、それを歯痒く思った人間がいました。西太后(慈禧皇太后)です。「何で母親のアタシじゃないのよ!?アタシが垂簾聴政したいッ!」。そう言ってクーデターを起こすと後見人たちを処刑したんです。彼女は咸豊帝の正室だった東大后(慈安皇太后)、同じく弟の恭親王と共に政治の実権を握ります。ただし、東大后は政治にあまり関心を寄せなかったので実質的には恭親王との二人三脚で垂簾聴政が行われました。

余談ですが、西太后には“黒い噂”がありました。それを紹介します。ある日のこと同治帝が西太后に言いました。「母さん、僕も大きくなったから自分で政治をしたいんだ」。ところが可哀想に彼は19歳で病没してしまいます。次に皇帝に就いたのは光緒帝でした。同治帝が世継ぎを遺さなかったので西太后の地位が危うくなったんですが、彼女は妹の子を強引に据えて権力をキープしました。それから7年後、今度は東大后が45歳で亡くなりました。さらに3年後には恭親王が清仏戦争敗戦の責任を取らされて失脚します。開戦に反対したにも関わらずです。これで邪魔をする人間は誰もいなくなりました。そして、もう一つ。成長して親政を始めた光緒帝は西太后と反目する間柄になっていきます。一度は光緒帝を追放しようとした西太后でしたが、意のままにならない外国に反対されて失敗。とうとう彼女の威光も翳ったかと思われましたが、何とも不可思議なことに西太后が72歳で死ぬ前日に光緒帝が37歳で崩御したんです。死因は急性ヒ素中毒と言われています。ここで挙げた亡くなった人々の死に西太后が関与したことを示す証拠はありません。でも、彼らの死によって誰がイチバン得をしたかを考えれば、答えは自ずと明らかになります。それが西太后にまつわる“黒い噂”です。

さて、ここで話を元に戻します。

1861年、西太后が権力を掌握してしばらくしたあと、1863年、李氏朝鮮では11歳の高宗が王位に就きます。既に書いた範囲でも分かると思いますが、彼は王という絶対的な立場にいながら父親と妻が繰り広げる政争に対して右往左往するだけで、主体性を発揮したことはありませんでした。愚鈍な王だったんです。体制が危機に瀕しているときに幼い愚鈍な皇帝や王が登場しただけでもアウトだというのに、そこへ清国では西太后、李氏朝鮮では閔妃という希代の悪女が加わっては、もはや為す術べはありません。

翻って日本を見ると、どうだったでしょうか。徳川幕府第15代将軍となった徳川慶喜が即位したのは1866年でした。慶喜は翌年に大政奉還して徳川の幕藩体制は終わったわけですが、それは彼が愚鈍だったからではありませんでした。むしろ、彼は事態がもはやどうしようもないことを悟ると自ら身を引いて無益な血が流れるのを避けようとしました。大阪からの敵前逃亡しかり、江戸の無血開城しかりです。仮に慶喜が徹底抗戦していれば、その機に乗じて欧米列強の侵略を許したかもしれません。そうさせなかったことはもっと評価されてもイイと思います。また1868年の明治維新で新しい御代の象徴となった明治天皇も名君とされています。それに、日本には希代の悪女が現れませんでした。

そうしたことを考えると、日本と清国、李氏朝鮮の明暗を分けたのはトップに立つ人間の資質だったということが分かります。もちろん、それだけだったわけではありませんが、少なくとも政治的な混乱を招いたか否かを左右する大きなポイントになったのは間違いないと思います。

ところで、西太后の登場は清国にどんな影響を与えたのでしょうか。それを次に見ていくことにしましょう。








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甲午農民戦争は平和的に解決されましたが、朝鮮に進出した日清両国の軍隊はそういうわけにはいきませんでした。どちらも朝鮮に対する影響力を手放そうとしなかったからです。その軋轢が日清戦争につながっていきました。年表形式でまとめると次の通りです。

1894年
6月11日─甲午農民戦争全州和約締結。これに伴い朝鮮は日清両国に撤兵を要求するが拒否される。
6月15日─日本は清国に協同で朝鮮を改革する案を提議する。
6月21日─日本の提案を清国が拒否する。
6月23日─朝鮮改革を日本単独で行うとする第一次絶交書を送付する。
6月28日─イギリスが日本側に立って調停に乗り出す。
6月30日─ロシアが清国の側に立って日本の撤兵を強く要求する。
7月 9日─イギリスの調停案を清国が拒否する。
7月10日─駐露大使からロシアはそれ以上の干渉はしないとの報告がもたらされる。
7月11日─日本は清国に第二次絶交書を渡して国交断絶を通知する。
7月14日─清国の光緒帝が第二次絶交書に激怒して開戦の準備を指示する。
7月15日─李鴻章漢城の南方牙山に展開していた清軍に開戦に備えて平壌への転進を命じる。
7月18日─李鴻章は朝鮮へ増援部隊を送る決定をする。
7月19日─日本は清国に5日間の猶予期限付きの最後通牒を通知する。
7月20日─大鳥圭介公使は朝鮮に清軍の撤兵と清国との従属関係を解消するよう迫り3日後までの返答を求める。
7月23日─甲午政変が起きる。朝鮮が事実上の拒否回答を寄越したので大鳥公使は歩兵一個大隊の兵力で王宮を制圧、大院君を復帰させ、牙山の清軍を討伐する命令を出させる。これによって閔妃は政権から退けられる。
7月25日─日清双方の巡洋艦が遭遇して起きた豊島沖海戦の最中に高陛号事件が発生する。
7月27日─大院君は金弘集内閣を発足させる。
7月29日─成歓の戦い牙山の清軍掃討に向かった日本軍が成歓で清軍と交戦し敗走させる。
8月 1日─日清両国が宣戦布告する。

こうして見るとアッという間にどんどん事態が悪化して戦争が始まったことが分かります。この中で注目したいのは日本軍王宮を占拠した甲午政変です。前㌻までで日本は朝鮮人の自主的な自立を望んでいましたが、日本の目論みはことごとく失敗に終わったことを書きました。朝鮮半島の人々にとっては王宮が日本軍に蹂躙されたというのは屈辱でしょう。それでも外部から強制されなければ、いつまで経っても近代化はできなかったのが当時の朝鮮だったということです。

大院君を摂政に推したのは閔妃を排除するためでした。彼女は朝鮮が自立と近代化を進める上でのイチバンの障害だったからです。もっともそこは大院君も似たり寄ったりで、彼は単なる飾りでしかなく、実際に改革を進めたのは金弘集軍国機務処総裁官でした。穏健的な改革派だった彼は甲申政変を主導した金玉均らと距離を置いていたので生き残っていたんです。新設された軍国機務処は軍務と国務に関するすべての決定をつかさどるという点で、国王より強い権限を持っていました。

金弘集が目指したのは王と王族を政治から分離すること、科挙の廃止、税をお金で収めること、身分差別を撤廃することなどを柱とする抜本的な内容でした。これが画期的だったのは、今までいくら近代的な政策を立てても王と両班が支配する古い体制では矛盾を生じさせるだけだったのを新しい政治体制に変えようとしたからです。金弘集が主導した改革は甲午改革と呼ばれていますが、朝鮮はせっかくの好機を自ら摘み取ってしまいます。それについては後ほど触れたいと思います。

上記の年表から、もう一つ指摘しておきたいことがあります。日清戦争を取り上げた本の中には、日本は宣戦布告の前に戦争を始めたと書いて非難しているものがあります。でも、それは事実を知らないか、無視しているかの何れかです。

日清の巡洋艦が洋上で鉢合わせして起きた豊島沖海戦は国際的に日本の立場を悪くする高陞号事件を起こしました。これは清国の兵を乗せて朝鮮に向かっていたイギリス船籍の商船高陞号が東郷平八郎艦長の巡洋艦浪速の臨検を受けたさいに、東郷大佐の命令に従わなかったために砲撃で撃沈された事件です。 

事件はすぐにイギリス国民が知るところとなり、日本は猛烈な非難を浴びることになります。これを鎮めたのはイギリスの権威ある国際法学者トーマス・ホランドでした。ホランドはタイムズ紙によせた記事で「戦争というものはあらかじめ宣言してなくても違法でないことは既に英米の法廷で審理され確定している。日本の艦長は適切な処置を取ったのであり、日本がイギリスに謝罪する必要はない」という趣旨のことを書いたんです。余談ですが、東郷は若い頃イギリスに留学したときに国際法を学んで、これを知っていたそうです。

そういうわけで、これだけでも宣戦布告前の戦闘行為で日本が非難される筋合いが無いことは明らかですが、もう一つホランドも知らなかったことがあります。それは豊島沖海戦が起きる前、日本は清国に最後通牒を送っていて、その中で「今より5日間を期して適切な提議が出されるのであれば考慮しましょう。でも、もし増援を送るようなことがあれば「脅迫(=戦争)」と断定しますよ」と警告していたことです。豊島沖海戦が起きたのは、この猶予期限が切れた翌日でした。最後通牒は日本が清国に送り、清国はそれを公表しなかったので他国に知られることはありませんでしたが、それでも日本が国際法に則って事を進めていたのが分かります。

次回は日清戦争の経過と戦後について。





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