実は清国が滅亡した理由は西太后のせいでも何でもありません。意外に思われるかもしれませんが、それは人口の急激な増加だったんです。康煕帝⇒雍正帝⇒乾隆帝のいわゆる三世の春時代が清国の絶頂期だったということはすでに書きましたね。中国の人口は康煕帝(1654-1722年)の時代には一億人に達していましたが、乾隆帝(1735-1795年)の治世中には何と三億人まで膨れあがってしまいました。当然のことながら人口が増えれば山林荒野を開墾して田畑も増える‥‥はずでした。でも、増えたのは二倍程度。これでは増えた人間を養えません。食糧難が発生します。それだけではありません。政府の税収が悪化しました。にも関わらず、政治を意のままに操る西太后は贅沢な暮らしを満喫するわ、官僚たちも汚職に励むわで、虐げられた人々の鬱憤は爆発する矛先を求めていました。そこへやって来たのがイギリス人やフランス人などの外国勢でした。攘夷、つまり外国人排斥運動が始まります。統治能力が低下した政府はこれを抑えきれません。清国は空中分解寸前にありました。西太后はその死を早めたのです。
さて、この頃になってようやく
「このままじゃイカン!」
と遅まきながら危機感を募らせた人々が集まって洋務運動と呼ばれた清国式の近代化が始まりました。その主立った面々は
①太平天国の乱鎮圧で湘軍を率いた曾国藩
②同じく淮軍を率いた李鴻章
③同じく楚軍を率いた左宗棠
④科挙を三番で合格した秀才張之洞
でした。洋務運動は30年かけて進められましたが、そのスローガンは中体西用、つまり
「我々は腐っても偉大なる中国皇帝の臣下でアルよ。西洋の猿まねなどできるものか。なァに、中国の体制は西洋より優れているのだから変える必要ナ~シ。ただ、西洋から先進の軍事技術をちょいと頂きさえすれば我々は再び復活できるアルね」
というものでした。何たる傲慢(笑)。長年、東アジアの盟主として君臨し続けたプライドが時代の変化を読む知覚を麻痺させ、上辺だけの近代化を目指そうと言うのだから話になりません。日本が政治体制、社会制度、教育制度、司法制度、憲法の制定などは言うに及ばず、庶民レベルでも例えば
「ざんぎり頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
と自嘲したくらい生活様式を一変させたのとは対象的です。産業革命だけは清国が先行してたようですが、それを生かす環境は整っていませんでした。結果、洋務運動は30年後に失敗が明らかになるのです。30年後とは日清戦争です。つまり、この30年が両国の明暗を分けたということになります。
ところで、明治新政府が李氏朝鮮に新政権成立告示文書なる国書を送ったのに朝鮮が受け取りを拒否した一件でのこと。最終的に日本は江華島事件という砲艦外交で半ば強制的に朝鮮を開国させたわけですが、これと並行して日本は清国とも条約締結に向けた交渉をしていました。「将を射んとすれば馬を射よ」というわけです。日本は清国へ
「日本だけで西洋に立ち向かうのは厳しいので一緒に協力しようよ」
と話を持ちかけて交渉がスタートします。そして翌1871年9月に日清修好条規が結ばれました。
この条約が締結された直後のことですが、琉球宮古島の島民が海で遭難して台湾に流れ着いたところを台湾の土着民族に殺害される事件が起こりました。日本は清国に抗議します。
「我が国民が台湾人に殺害された件について、貴国はどう責任を取るつもりか?」
これに対する李鴻章の答えは
「台湾は化外の地なので責任は取れない」
でした。化外とは清国の統治が及ぼないという意味です。事実上、領土ではないと宣言したようなものです。これ、李鴻章としては
「格下の日本が賠償金だと?まともに相手なんぞ出来るものか」
と、考えたのかもしれません。でも、日本にしてみれば
「ふむ、台湾が清国の領土じゃ無いなら日本が何をしてもイイんだな」
となるわけで、これが台湾出兵につながっていきます。
1874年(㍾7年)、西郷従道が従えた 3,000人の兵力が台湾に上陸して事件が起きた地域を制圧します。日本はこの機会に台湾の領有化を考えて兵力の半数は移住を希望する士族の三男坊などで編成したと言います。台湾への日本軍出兵を知った李鴻章は前言を翻して激しく抗議してきました。そこでイギリスを仲介役にして大久保利通と恭親王の間で和平交渉が行われます。すると、ここで李鴻章が急に大人しくなって、恭親王に日本の条件を呑んで兵を引き揚げてもらった方がイイと進言します。こうして清国は台湾出兵を日本の保民義挙、つまり、日本は自国民を守るために正しいことをしたと認めて賠償金の支払いに応じることになりました。李鴻章の態度の変化は日清両国海軍の戦力差が原因でした。清国には日本海軍の旗艦龍驤と甲鉄艦扶桑のような鉄鋼で防御された軍艦がなかったので李鴻章は日本と衝突しても勝てる見込みはないと考えたんです。
「日本に頭を下げる屈辱を今は耐えてやる。でも、必ず日本をひれ伏せる艦隊を造ってやる」。
その思いが定遠級二隻を中心にした北洋水師(水師は艦隊の意味)建設の原動力になっていきます。
もう一つ、注目したいのはこのとき清国は宮古島の島民を日本国民と認めたことです。李氏朝鮮と同じく清国との冊封関係にありながら、同時に薩摩の支配を受けていた琉球国の処遇は明治政府にとって頭を悩ます問題でしたが、これで日本への編入が前進した形になりました。1871年(㍾4)全国で廃藩置県が執行された折に琉球は鹿児島県下に置かれますが、翌72年に琉球藩を設置、尚泰王を他の元藩主たちと同じように華族とする措置を取ったあと1879年(㍾12)廃藩置県を通達、沖縄県と改めて尚泰王に首里城の明け渡しと東京移住を命じました。これは琉球処分と呼ばれています。このとき琉球王府内で大勢を占めていた親中派が清国に助けを求めます。清国の抗議で琉球帰属の問題が話し合われましたが、最終的に残ったのは沖縄本島以北を日本領土とし、南の宮古諸島や八重山諸島を清国領土とする案でした。でも、清国が調印を拒否して以降の交渉も途絶えたため、現在の国境線が確定しました。
琉球を失った清国はさらに阮朝越南、つまりベトナムも失うハメになります。1840年代から徐々にベトナムに浸透したフランスとの対決がついに避けられなくなり清仏戦争が始まります。この戦争に李鴻章は反対でした。福建水師が開戦早々フランス東洋艦隊に潰滅させられて西太后から北洋水師を出すように言われても
「日本に睨みを効かせるための艦隊を敗けると分かっている戦さに出すわけにはいきません」
と断ってしまいます。こんなことってある?実はこれが洋務運動の姿だったんですね。各軍閥がテンでバラバラに洋式新式の軍艦を買い漁ったはイイけれど、そこには戦略が無ければ統一された意思も無く、それぞれの首領が好き勝手に動かしていただけなんです。だから李鴻章は左宗棠が造った艦隊が海の藻屑となっても気にしませんでした。陸の戦いでは善戦することもありましたが、結局ベトナムから追い出された清国は1885年の天津条約で宗主権を放棄しました。琉球に続くベトナムの喪失が朝鮮へ強く固執する背景になったことが分かると思います。
ともあれ、近代艦隊の建設が着々と進んだ清国では、特に李鴻章の北洋水師の整備が優先的されて甲申政変(親日派のクーデター事件)翌年には「遠き日本を平定する」定遠、「遠き日本を鎮圧する」鎮遠の装甲艦(戦艦)が就役するなどして次第に陣容を整えていきました。しかも配備されたばかりの新鋭艦2隻を長崎に寄こします。表向きは親善活動。でも実は
「ほれほれ、よォく拝むがよい。これが戦艦というモノでアルよ。お前たちには逆立ちしたって買えっこないだろうがな(笑)」
という示威活動。そこからさらにホントのところを探れば定遠級の船体を収めるドッグが清国には無く、長崎にしか無かったという事情がありました。ここにも洋務運動の欠陥が浮き彫りです。
定遠級の威容は確かに日本人を畏怖させました。これに対し、日本は甲申政変の後から海軍の増強に力を入れますが、なんせ貧乏所帯ゆえに巡洋艦を買うのがやっと。戦艦なんてとてもとても。日清戦争が勃発する前年の国会審議でも海軍予算が否決されてにっちもさっちもいかないような有り様でした。このときの様子を見かねた明治天皇が
「これを海軍のために遣ってやって欲しい」
とポケットマネーから30万円を出したほどです。これは建艦詔書と呼ばれていますが、天皇がそこまでするのならと全国からも200万円の義捐金が集まったそうです。それくらい日本の海軍整備は遅れていました。
尤も清国にしたって万事が順調というわけではありませんでした。むしろ実態を見るに深刻な状況だったとも言えました。ここで再び西太后の登場です。彼女は甲申政変が起こった年に頤和園の再建を命じます。アロー戦争で英仏軍が破壊したかつての名所を別荘として利用するためです。この費用には2,000万両以上かかり、さらにそこで催される西太后の還暦祝いは700万両以上かかると見積られました。
「西太后さま、国庫にはそんなお金がありません」。
「あら、何を言ってるの?北洋水師の予算があるじゃないの。それを遣いなさい」。
「しかし、それでは・・・」。
「李鴻章、誰のおかげで今の地位にいると思って?無駄口たたく暇があるならさっさと頤和園を建て直しなさい!」。
具体的なやりとりはともかく、己の楽しみにしか関心がない西太后のおかげで日本は救われました。清国がまともに予算を使っていれば170万両で買えた定遠級がもっと買えたはずでしたし、北洋水師が根拠地にしていた軍港威海衛の設備投資、艦隊の訓練なども充実したはずだからです。
さて、ここまで長いこと辿って日清両国は衝突の瞬間を迎えることになりました。兵力は日本が24万に対して清国63万。海軍は
連合艦隊 軍艦22隻 水雷艇24隻 計59,000㌧
北洋水師 軍艦22隻 水雷艇12隻 計42,200㌧
南洋水師 軍艦16隻 水雷艇 0隻 計19,000㌧
福建水師 軍艦10隻 水雷艇 1隻 計 9,700㌧
広東水師 軍艦30隻 水雷艇12隻 計14,000㌧
というもので陸海いずれにしても日本は劣勢でした。ただし、清仏戦争の場面がそうだったように日本の連合艦隊に対抗するのは北洋水師だけで後はみんな知らんぷり。というか北洋水師以外では給与の支払いもままならない状態で、南洋水師の軍艦3隻は食いブチを求めて北洋水師に寄生していたほど。頤和園再建の煽りで1888年以降~開戦までの6年間に新規購入された艦は無し。頼みの綱は定遠級の巨砲でした。対する日本は戦艦こそ持たないものの新鋭の巡洋艦8隻に搭載された速射砲が鍵を握っていました。日清戦争は、連射できなくても当たれば破壊力が大きい巨砲が有利か、あるいは威力は劣っても連射できる速射砲が有利なのか、という疑問に答えを出す戦いでもありました。陸軍兵力も同様に兵力で勝ってても頭数を寄せ集めただけの集団と、数に劣っても訓練と装備が充実した正規軍という違いがありました。次回からいよいよ日清戦争の経過に突入です!(笑)
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