The Same Moon Cafe -2ページ目

The Same Moon Cafe

どこにいようと見上げる月はいつでも優しく微笑んでいる


漢城で野津司令官に様子が変だと疑われた大院君は東学農民軍を指導した全琫準と密かに連絡を取り「平壌の清軍と連係すれば日本軍を追い出せるだろう。だから君はもういちど数十万の民を集めて漢城に来てくれ」と指示を出していました全はそれに応えて再蜂起します。でも、実際に挙兵できたのは平壌の清軍が敗走したあとの10月9日でした。頼みの綱の清軍はいませんが、それでも街道を練り歩く決起した叛乱軍は口々に「日本を追い出せ!開化派の政府を倒せ!」と叫びながら進軍します。大院君は日本に軍隊は出さないでくれと頼みますが、そんな話が通じるわけはありません。日本軍から歩兵一個大隊、それに朝鮮政府軍、さらには第一次蜂起で面子を潰された両班たちも加わって叛乱は鎮圧されます。首謀者の全琫準は年が明けて捕らえられ処刑されました。全琫準については公使の井上馨が人格に感銘を受けて助命を願ったとも言われていますが、金弘集朝鮮政府は井上が朝鮮を留守中に刑を執行しました。全ては時勢を顧みない大院君の謀略が招いた結果でした。

ところで戦争は終わりに近づいていました。誰の目にも大勢は決したと映っていたのでしょう。10月8日 まずイギリスが、次いで9日にはイタリアが仲介を打診してきます。11月22日 清国も講和のための予備交渉を申し入れてきました。このとき日本はできるだけイイ条件で清国の譲歩を引き出したいと考えました。それで、より大きな戦果を狙った作戦が立てられました。

1月20日から22日にかけて第二軍の第二師団と第六師団が山東半島に上陸しました。威海衛攻略戦です。なぜ威海衛なのか?それは北洋水師の残存艦艇と基地機能を徹底的にたたけば政治的に大きなポイントを稼ぐことになるからです。その背景には日清戦争が実際には日本vs李鴻章の戦争だったというところにあります。北洋水師の拠点である威海衛を陥とすのは李鴻章の政治力に大打撃を与えることになるわけです。威海衛に進出した日本軍は陸上の要塞を比較的容易に占領したあと港内の艦船への砲撃を始めますが、戦意旺盛な丁汝昌定遠など在泊艦艇の艦砲で反撃して日本軍を寄せ付けません。陸上からの北洋水師撃滅は諦めざるを得ませんでした。連合艦隊の出番です。

でも、北洋水師は威海衛の入口に日本艦艇の侵入に備えた防材を設置するなどして海からの攻撃にも万全の態勢を敷いていました。港外からでは威海衛港内の奥深くにいる在泊艦船を攻撃できません。伊東連合艦隊司令長官は水雷艇による夜襲を命じました。2月5日の夜襲は完全に失敗して作戦に参加した水雷艇は撃沈されるか甚大な被害を受けてしまいます。それでも9日の二回目の夜襲で定遠を大破させ(後に自沈)他に三隻を撃沈、ようやく目的を果たすことができたのでした。これに、よもや定遠が沈むとは思ってなかった北洋水師の水兵たちは動揺して叛乱を起こします。再三、伊東司令長官の降伏勧告を蹴った丁汝昌でしたが、事ここに至っては万策尽き、味方の裏切りに対する無念さを綴った遺書をしたためたあと服毒自決しました。連合艦隊は降伏した清軍将兵の助命嘆願を聞き入れて捕虜とせず、丁汝昌提督の遺骸と一緒に帰還船で威海衛を出るのを赦し丁重に見送りました。それに対して清国の光緒帝は北洋水師の敗北をなじって丁汝昌に葬儀を出すのを赦さなかったばかりか、彼の財産を没収することまでしました。そもそも日本との開戦に消極的だった李鴻章に開戦を命じ、艦隊を温存するつもりだった丁汝昌に積極的な行動を矢のように催促して求めたのは光緒帝でした。提督に対する帝の冷たい仕打ちは間違っているだけでなく、こうした中央の対応も当時の清国の混乱ぶりを示しているようで興味深いところだと思います。


この後、日本軍は遼東半島全域でも作戦を行って占領を確実なものとしていき、さらに東シナ海に浮かぶ膨湖列島を攻略します。

そうした中 3月19日 李鴻章が来日します。講和交渉のためです。日本は伊藤博文に全権を預けて交渉がスタートします。ところが 3月24日 李鴻章が日本人暴漢に襲われて負傷する事件が発生しました。交渉を注視していた各国の同情が李鴻章に集まり、せっかく交渉を優位に進めようとしていた日本の思惑はこれで破産してしまいます。このとき伊藤は「なんてことをしてくれたんだ」と怒りをあらわにしています。交渉は 3月26日の膨湖列島占領を経て、3月30日 休戦合意が確認された後、4月17日 下関条約が結ばれて完結しました。

下関条約は冒頭で朝鮮の自主独立を謳いました。清国に「朝鮮にはもう手を出しません」と認めさせたわけです。その保証として朝鮮への入り口にあたる遼東半島が日本の管轄下に置かれます。そして琉球の八重山諸島を守るために台湾を獲得します。膨湖列島の占領はこれが目的だったんです。さらに巨額の賠償金を得ることにも成功します。この賠償金は八幡製鉄所の建設にも使われて、ようやく日本も産業革命に取り組むことができるようになります。また海軍予算の心配もしなくて済むようになり、後の日露戦争で活躍する戦艦三笠など海軍戦力の充実が図られることにもなります。

さて、日清戦争がこのような結果になって驚いたのは西洋列強でした。特に朝鮮への関与を強めたいと考えていたロシアは日本が遼東半島を所有することに強く反発します。そこでロシアはフランスとドイツに声をかけて 4月23日 日本に「遼東半島は返してやれ」と迫ります。フランスが提案に乗ったのはヨーロッパでロシアと同盟関係にあったからでした。ドイツは世界第二位の軍事大国だったロシアの目をヨーロッパから逸らしたいと考えて同調します。日本にこれをはね返す力はありません。仕方なしに遼東半島を清国に返します。それをロシアは租借して旅順をロシア艦隊の根拠地にして鉄道を敷く権利を得ます。これは事実上の占領であり、血も汗も流さないで遼東半島を奪い取ったロシアのやり口に日本ではロシア憎しの国民感情が高まって日露戦争へ繋がっていったのはご承知の通りです。

日清戦争編はこれで終わります。次回からは再び朝鮮にステージを戻して話を進めていきたいと思います。








艦隊これくしょん艦これ

巷でヒットしている このゲームをモチーフにした食玩商品があります














艦これ モデル Vol.1

その10個入り 1ボックス大人買いしてしまいました

お値段 5,250円也 (汗)














ちょうどガムが欲しかったのよね














って 違うわいッ
















実を言うと すでにセットの中の

重巡洋艦 利根

重巡洋艦 筑摩

重巡洋艦 高雄

軽巡洋艦 矢萩 を購入した後なので













無駄遣いもイイとこなんですが













これから購入するつもりだった

航空母艦 赤城 やら

航空母艦 加賀

航空母艦 翔鶴

高速戦艦 金剛

高速戦艦 比叡 などがあり

ここで思い切ってボックスで買い直した方が

まだマシだと考えたんです

(箱の中に何が入ってるかは開けてみないと分からない)






なんせ シリーズすべてを揃えたくなるほどクオリティーが高いのでね

↓こんな感じです


巡洋艦の優美な船体形状がよく表現されてるのが分かるでしょうか

キャラが描かれたディスプレイ用スタンドもシャレてると思いません?

スケールサイズは 1/2000 なのでタバコと比較すると こんな感じです



小さッ!!

これで分かると思いますが の簡易プラモデルなんですね










だから組み立てには

ニッパー

カッター

ヤスリ

ピンセット

接着剤 が必需品です





それに加えて

ピンバイス があると なおのこと宜しいかと思います




ピンバイスはドリル刃をセットして使うツールで

直径0.6㍉~1.2㍉ 程度のドリル刃が数種類あると重宝します













さぁ これで楽しみが一つ増えたぞ

やっぱりこういうのを書くときは事前に頭の中をある程度まとめておかないと大変ですネ(笑)。

確か前回は豊島沖海戦(高陞号撃沈事件含ム)成歓の戦いまで書きました。ということで、1894年(明治27) 8月1日を以て両国が正式に交戦状態へ入ってからの出来事を取り上げたいと思います。この時点での日本の最大の関心事は漢城の南方にある牙山を放棄して逃げた葉志超軍の行方でした。敵が分散しているうちに各個撃破しようとしたわけですから逃げられたのは大誤算でした。まさか戦わずに逃げるとはなぁ。混成第九旅団長大島義昌少将のボヤキが聴こえて来そうです。これが北の平壌の部隊と合流するといささか厄介なことになります。果たせるかな。斥候部隊から葉志超軍が平壌に現れたという報告が入ります。どうやら敵は漢城の東を迂回して400㌔の道程を20日かけて平壌にたどり着いたようです。これで日本は一万の兵力で平壌に立てこもる清国軍一万五千をやっつけなければいけなくなりました。日本軍としては援軍を待って仕掛けたいところですが、漢城では大院君が動揺していて、このまま手をこまねいているうちに大院君が寝返ろうものなら事態を難しくするだけです。第一軍司令官山縣有朋大将の命令もあり第五師団野津道貫中将は手持ちの兵力で平壌攻略戦を実施することにしました。9月15日 平壌をぐるりと包囲した日本軍は攻撃を開始します。ところが、平壌は予想以上に頑丈に要塞化されてて日本軍の攻撃にビクともしません。おまけに最新式のガトリング機関銃で雨あられのごとく弾丸を浴びせてきました。見るみるうちに日本軍の兵士が斃れていきます。でもこれでは近づくことすらママなりません。さて、どうするか───。

平壌を守備していたのは盛字軍六千、奉天軍三千五百、毅字軍二千、盛字練軍千五百と葉志超の軍でした(練軍は正規の国軍)日本軍は知りませんでしたが、平壌城内では牙山から逃げてきた葉志超がまたここでも撤退を主張して指揮権を剥奪されていました。彼を引きずり下ろしたのは奉天軍の左宝貴です。ところが勇敢な軍人でもあった彼は自ら先頭に立って前線で活動するうちに戦死してしまいます。それを聞いた葉志超はすかさず指揮権を取り戻すと徹底抗戦を主張する部隊を戦闘の激しい正面に配置して、彼らが全滅したあと城門に白旗を揚げさせました。ビックリしたのは日本軍です。清国軍に有利な戦況でなぜ白旗が揚がる?とりあえず軍使を送って確認しようとしたところへ雷雨が襲ってきたので、開門は清国軍の要望を容れて明くる日と決まりました。でも葉志超の魂胆は夜陰に乗じて脱走を図ることにありました。しかし、そこは野津師団長も心得たもので、あらかじめ各部隊に警戒を命じてありましたから、清国軍将兵は脱出したところで狙い撃たれ累々と屍を晒していきました。清国軍死傷者の大半がそのときの犠牲だったと言われています。

それにしても清国軍の体たらくは酷すぎます。特に牙山を逃げ出し、平壌でも逃げることしか考えなかった葉志超の無能ぶりが目につきます。彼はイチバン高位の将官だったため平壌でも指揮を任されましたが、李鴻章へは「日本軍を散々痛めつけてから戦略的に兵を引きました」と報告しました。戦略的?(笑) そう言えば豊島沖海戦でも巡洋艦済遠が交戦を開始するや否や僚艦を置き去りにして一目散に遁走しました。済遠の艦長方伯謙も白旗を揚げつつ逃げて、これまた同じように「戦力の温存を考えて戦略的に撤退した」と報告しています。日本人が「誠」なら中国人は「欺」だと書いた本がありますが、まさにそれを証明する事例です。軍人としては情けないこと、この上ない。でもまァ、そのおかげで苦戦を覚悟した平壌がたった一日で落ちたのは日本にとって幸いでした。これでひとまず朝鮮から清国軍を駆逐するのに成功したわけで、次の戦場は鴨緑江を越えた清国領土内にステージを移すことになります。

と、その前に海上では早くも日清両艦隊の決戦が近づいていました。

その日、9月17日 北洋水師は前日に輸送船団を護衛した帰りに洋上訓練をしていたところでした。輸送船団というのは16日に平壌が陥落したことを知らない清国が増援部隊を朝鮮との国境にほど近い大孤山へ送ったものです。北洋水師出撃の報に接するや連合艦隊は直ちに錨を揚げて会敵が予想される海域へ向けて針路を取りました。午前10時すぎ、水平線上に棚引く煤煙を発見して突撃開始!とは言っても白波を蹴立てて猛然とダッシュする光景ではありません。当時の軍艦のことですから何と言っても脚が遅い。北洋水師も逃げることなくこちらに向かっているというのに、なかなか相手の姿が見えず気ばかりが逸るだけ。黄海海戦はそんな感じで幕を上げました。

日本側は第一遊撃隊の巡洋艦四隻と連合艦隊本隊の巡洋艦六隻が単縦陣の隊形を取って、右舷に見える敵艦隊の前方を横切るように進んでいきます。北洋水師の方は丁汝昌提督が座乗する旗艦定遠と鎮遠を中心に他の八隻の巡洋艦が横列陣を形成して左舷側から近づいてくる日本艦隊を迎え撃つ態勢を取りました。

縦一直線の日本艦隊と横一直線の清国艦隊の隊形の違いは戦術の違いから来ています。北洋水師が意図したのはラム戦でした。当時の艦は水線下の艦首がまるで顎角とでもいうように前方に突き出ていて、その衝角のことをラムと言いました。これは海賊さながら敵艦の横っ腹に頭から体当たりして水線下の船体に破孔を開けるためのデザインです。丁汝昌は1866年にオーストリア海軍とイタリア海軍で戦われたリッサ海戦を意識していました。その海戦ではイタリアの装甲艦がラム攻撃を受けて沈没しています。それゆえ装甲艦にはラム攻撃が有効であるという認識が世界的にあり、北洋水師はその戦法に則って戦おうとしたわけです。それに対して伊東祐亨連合艦隊司令長官の考えは違っていました。日本艦隊の武器はスピードと速射砲です。これを生かさない手はありません。船が帆走から石炭ボイラーによってスクリューを回す汽走になり、船体も木造から抗堪性に秀でた鋼鉄製となって、砲頓兵装も格段の進捗を遂げました。ところが、この新しい時代の海戦に相応しいマニュアルはまだ世界のどこにもありませんでした。定遠の巨砲が有利なのか、日本艦隊の速射砲が有利なのか。艦隊をどう動かせばイイのか。全世界の海軍関係者が固唾を呑んで注目していたと言っても過言ではありませんでした。黄海海戦はその答えを導き出す戦いになりました。

12時52分、距離六千㍍で始まった砲戦で先手を取ったのは日本側でした。北洋水師は目の前を左から右へ横切る連合艦隊からの激しい十字砲火を浴びて、たちまち被害艦が続出します。北洋水師もラム戦に持ち込むべく突進しますが、スピードに優る連合艦隊はその前をすり抜けてかわすだけで全く相手にしません。連合艦隊は敵の背後に回りつつ各艦を滅多撃ちにして北洋水師を翻弄するという展開が繰り広げられました。

それでも黄海海戦は楽な戦いではありませんでした。まず、旧式ゆえスピードに劣る比叡扶桑が本隊から取り残されて敵中に孤立してしまいます。これを好機と見た北洋水師が取り囲んで体当たりを仕掛けてきます。このピンチを比叡は敵の砲弾を浴びながら左右から迫る敵艦の間をすり抜けて窮地を脱します。続く扶桑も何とか清国艦をかわすと次に危機に直面したのが赤城西京丸でした。商船に簡単な武装を施しただけの仮装巡洋艦西京丸には内地から伊東司令長官を督戦するために来た樺山資紀軍令部長らが乗艦していました。護衛の赤城は小型の砲艦でしたが、西京丸を護ろうと果敢に反撃を試みて艦長坂本八郎太少佐が戦死、艦の指揮を継いだ佐藤鉄太郎航海長の機転で奮闘するうち、坪井航三少将の第一遊撃隊が救援に駆けつけて辛うじて事なきを得ます。これが黄海海戦における日本最大の危機でした。

最終的に17時40分頃まで続いた海戦で連合艦隊は全艦が被弾したものの、四隻が大・中破するに留まり沈没した艦はありませんでした。北洋水師の方は巡洋艦五隻が撃沈され、六隻が大・中破、そのほか二隻が浅瀬に乗り上げて失われました。連合艦隊が恐れた定遠は159発の砲弾を浴びながら無事でした。ただし、主砲を発射したときの衝撃で艦橋が崩れ落ちて丁汝昌を始めとする幹部が負傷しています。北洋水師の予算が西太后に削られてメンテナンスも碌にできなかったツケがこのとき回ってきたのでした。ついでに双方の被弾数に注目すると連合艦隊の被弾が130数発に対して北洋水師の被弾は700発以上を数えたということですから、速射砲の有効性が確認された戦いになりました。連合艦隊の砲戦重視の戦術は日露戦争における日本海海戦で、さらに磨きが掛かって大艦巨砲主義となり世界中の海軍に影響を与えていきます。考えてみるとココにも洋務運動の欠陥が現れていたと思うのですが、やはりハードウェアだけを取り入れるだけではダメで、ソフトの充実を図った日本が新しいスタイルを切り開いて海戦に勝利したのは当然の帰結だったのかもしれません。

そうそう、豊島沖海戦でいち早くトンズラした済遠の艦長方伯謙ですが、黄海海戦でもやっちゃいました。旗艦が猛射を浴びて炎を上げているときにその傍らから堂々の敵前逃亡です。でもほら、済遠の被害も相当なもんだし・・・・ん?いや、どうやら旗艦の影に隠れてかすり傷のようです。さすがに今回はどんな言い訳も通用しませんでした。旅順に逃げ帰った逃走名人は銃殺刑に処されたということです。

さァ、これで制海権は日本のモノになりましたから海軍の心配は無くなりました。と、言いたいところですが、たとえ傷ついたとはいえ定遠と鎮遠が海に浮かんでいる限り、日本は安心できませんでした。何とかして威海衛に引きこもるこの二艦を葬る術は無いものか作戦が練られますが、それについては、またあとで触れたいと思います。

黄海海戦の勝利を受けて大本営は第二期作戦の準備にかかります。第一期作戦が朝鮮からの清国軍の駆逐、第二期作戦は清国領土での掃討戦というわけです。もし黄海海戦で連合艦隊が敗けていたら日本は第二期作戦を行う兵力を安全な場所に上陸させて、そこから延々と戦場まで歩かなければいけませんでした。兵隊はまだイイとしても武器弾薬や糧食などを手押しの大八車で運んでいた物資の兵站問題は常に司令部の悩みの種でした。黄海海戦が如何に重要だったかがこれで分かると思います。新規に編成された第二軍は旅順攻略を目指して、遼東半島へ上陸しました。

第二軍の遼東半島上陸と時を同じくして10月24日 山縣大将直卒の第一軍も鴨緑江に橋をかけて渡ります。清国軍は三万の兵力と90門の野砲で布陣していましたが、毅軍の士気が低く指揮官の宋慶軍をまとめきれなかったので小競り合いを演じたあとは我先に敗走。このため日本軍は26日に九連城無血占領したあと、27日には大東溝に兵站司令部を設置して補給に目処をつけ、さっそく29日には要衝の鳳凰城攻略に取り掛かるんですが、到着してみれば清国軍はここでも城内に火を放って既に退却したあとでした。結局、第一軍の鴨緑江作戦は大した抵抗を受けることなく終了しました。

一方、第二軍の方も24日の上陸のあと、11月6日に金州城を占領していよいよ旅順の攻略に着手します。旅順といえば要塞で防備を固めた重要な軍港町。さぞかし激しい攻防戦になるだろうと予測されました。ところが21日から始まった総攻撃は蓋を開けてみれば何とやらで、清国軍は呆気なく潰滅。この清国軍のやる気のなさは何ゆえ?実は清国軍の主体を構成したのは各地域に根を張る軍閥の私兵集団でした。そこに集まったのは食いっぱぐれた人間や町の浮浪者だったんです。正規の軍事訓練を受けたことがなく、国家への忠誠心の欠片も持ち合わせない人間が日本軍と相対したのですから、恐怖の連鎖反応がここまで伝播したのは無理からぬことだったのかもしれません。

しかし、ここで日本軍は痛恨の極みとでも言えることをやらかしてしまいました。旅順虐殺事件です。日本政府は日清戦争を始めるにあたって諸外国に「清国はどうであれ日本は戦時国際法を必ず遵守する。これは“文明戦争”である」と高らかに宣言していました。戦地でも第二軍司令官大山巌大将が「我が軍は仁義をもって動き文明によって戦うものなり」と訓示していましたから余ほど念を入れていたことが窺えます。ところが、掃討作戦で旅順市内に入った日本軍は殺された友軍兵士の生首を見つけます。しかも、それは鼻や耳を削がれたりした残酷なものでした。犠牲になったのは秋山好古少佐の部下で11月18日の戦闘で負傷して捕われの身になっていた騎兵第一大隊所属の中万徳次中尉以下の兵士たちでした。これは清国軍が「褒賞をもらいたければ敵の身体の一部を持って来い」と命令したことに起因しています。日本軍が激しい怒りに囚われて市内に隠れている敵兵の搜索にあたると、清国兵は軍服を脱ぎ捨ててゲリラ戦を挑んできました。こうなると民間人との区別がつきません。日本軍は片っ端からそれと思しき人間を殺害していきました。これが第一段階です。ここまでは清国軍側の反撃もあり、仕方ない一面があったと言えます。でも、11月22日以降、清国軍の抵抗もなくなった中で行われた大量殺害は捕虜の取り扱いを定めた国際法に明らかに背く行為でした。当時、兵士たちが故郷に書き送った手紙にも“戦果”を挙げる生々しい様子が詳細に綴られていて、その一部が福岡日日新聞などに掲載されました。また、海外のマスコミではイギリスのタイムズ紙、アメリカのニューヨーク・ワールド紙などが特派員の記事を掲載して日本を痛烈に批判しました。そのため日本政府は躍起になって火消しに努めなくてはいけなくなりました。日清戦争そのものは想定外と言えるほど順調に推移していただけに何とも後味の悪いことをしたのが悔やまれます。