八田與一展 | 並木正芳オフィシャルブログ Powered by Ameba

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 15日、


 中華民国台湾大使公邸で開催されている「八田與一展」を見学しました。


 八田與一は金沢市出身で、東京大学を卒業し、水利技術者として、日本統治時代の台湾で農業水利事業に大きな貢献をしました。


 28歳にして桃園大圳(とうえんたいしゅう)の水利工事に成功し高い評価を受け、その後台湾南部の嘉南平野の調査を行いました。


 嘉南平野は、広大な面積を有していましたが、水利が悪く15万ヘクタールに及ぶ田畑は常に干ばつの危険にさらされていました。


 八田は、ダムや灌漑用のトンネルなどを建設する精緻な計画を提案し、官民共同事業として半額を国費で賄うことが国会でも承認されたため、公務員を辞し、組合付き技師として1920年から30年まで、完成に至る工事を指揮しました。

 

 工事は、満水面積1千ヘクタール、貯水量1億5千万㎥の大貯水池「烏山頭ダム」として完成し、水路は嘉南平野一帯に1万6千キロメートル細かくはりめぐらされています。


 この水利設備全体は、嘉南大圳と呼ばれ、烏山頭ダムは今も嘉南平野を潤しています。


 現在は、大きな役割を1973年に完成した曽文渓ダムに譲りましたが、このダムも八田與一が計画したものとのことです。


 1942年フィリピンの棉作灌漑調査のため広島宇品港から出港した八田の乗った船「大洋丸」は、アメリカ海軍の潜水艦に五島列島付近で撃沈され八田自身も亡くなりました。


 終戦の年の1945年9月1日に、妻の外代樹は、夫の後を追うように烏山頭ダムの放水口に身を投げてしまったという悲しい出来事もありました。


 八田が心血注いだ烏山頭ダムは、コンクリートをほとんど使わず、粘土・砂・礫を使った「セミ・ハイドロリックフィル工法」でダム内に土砂が溜まりにくいため同時期に造られたダムが機能不全になる中でしっかりと稼働し続けています。


 烏山頭ダムには、八田を記念する公園が作られ、銅像、墓、顕彰する記念館なども併設され、開園には馬英九総統も参加するなど日台友好の象徴となっています。


 こうした先人の努力があってこそ、日台友好の今日があることを痛切に感じさせられました。