調査日誌188日目 -浪江町域の山中郷在郷給人について⑤- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年5月7日。

 

ここのところ相馬藩山中(さんちゅう)郷の在郷給人について検証しています。典拠は『東北アジア研究センター報告 23 旧陸奥中村藩山中郷基本資料』(東北大学東北アジア研究センター、2016年)に掲載された資料『山中郷給人系図目録 上』です。

 

今回は同書に掲載された『山中郷給人郷士系図目録 下』のうち、「郷士」として分類された人びとについて検証します。

 

①津島:氏家治兵衛

系図には「氏江」として記されています。初代の氏江市郎左衛門は正徳元年(1711)に知行高5石が認められています。

 

②津島:大和田忠太

初代として記されているのは権左衛門。四代目の大和田儀左衛門が明和元年(1764)に知行高5石が認められて、郷士として取り立てられています。その息子である五代目の忠多が安永8年(1779)に3石、天明5年(1785)に7石が「切次」として知行が認められています。

「切次」とは切継のことで荒地開拓の後に藩に献金して知行地とすることです。

忠多の息子である小源太も文化3年(1806)に7石が「切次」として知行が認められています。全部で知行高22石に達しており、かなり頻繁に切継を行っていることがうかがえます。