調査日誌187日目 -浪江町域の山中郷在郷給人について④- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年5月6日。

 

ここのところ相馬藩山中(さんちゅう)郷の在郷給人について検証しています。典拠は『東北アジア研究センター報告 23 旧陸奥中村藩山中郷基本資料』(東北大学東北アジア研究センター、2016年)に掲載された資料『山中郷給人系図目録 上』です。今回は同書に掲載された『山中郷給人郷士系図目録 下』のうち、「延宝開発給人」について検証します。「延宝開発給人」とは、延宝年間(1673~1681)に取り立てられた在郷給人です。

 

①津島:三瓶宇右衛門

初代の三瓶将監の孫に当たる三代目の金十郎は延宝5年(1677)に5石を認められています。

 

②津島:今野運次郎

初代の紺野太郎兵衛は延宝5年(1677)に2石3斗、二代目の弥兵衛は天和3年(1683)に7升8合が認められました。以前もありましたが、系図には「紺野」とありますが、目録には「今野」とあります。どちらも使っており、明治以降に「今野」「紺野」に固定化されたのでしょうね。

 

③津島:伏見忠次郎

初代の伏見新三郎は鳩原村(現在の南相馬市小高区北鳩原・南鳩原。はっぱら)住でして、延宝5年(1677)に2石9斗5升、二代目の助右衛門は天和3年(1683)に2斗7升、元禄3年(1690)に2斗8升が認められました。しかし、無調法があったとのことで改易されています。在郷給人にも改易ってあるんですね😅 何したんでしょうか??

三代目の幸四郎は小高郷浦村(該当なし。浦尻・上浦・福浦村の誤記か)に居住していましたが、新知として2石が認められています。四代目の平左衛門は津島村の今野勝右衛門(一昨日のブログの③津島の今野幸左衛門家四代目)弟で、ここから津島村に住んでいます。

 

④津島:今野要右衛門

初代の杢之助の孫である三代目の次右衛門は南右田村(現在の南相馬市鹿島区南右田)に住しており、新知として10石が認められました。「延宝開発給人」に入っているので延宝年間(1673~1681)に取り立てられたと思われます。六代目の庄之丞が津島村助之允の家より養子に入り、以後、津島村に住しているようです。津島村助之允は苗字が記されていないので在郷給人ではないようです。

六代目の庄之丞の息子である定之助は村目付を務めました。村目付とは、陣屋に務める相馬藩の中村城から派遣される藩士のもとで地域の管理をする在郷給人の役職です。

 

新しく取り立てられた家なのか、あまり役職に就いていないという傾向が見て取れますね。