調査日誌161日目 -北幾世橋村北原御殿について⑤- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

『大字誌 浪江町○○』調査日誌

旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2024年4月10日。

 

『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)に記載された北幾世橋村に存在した北原御殿について見ています。北原御殿とは、江戸時代の藩主である相馬昌胤が泉田村(現在の浪江町大字北幾世橋)に居を構えた隠居所のことです。

 

かなり長文なので、何回かに分けます。適宜、読点を付します。

 

----------------------------------------

 

棲遅此邑凡二十八年、郷黨浴恩波、百年後一邑今尚慕甘棠如往時〈公在世舘下閭閻百余戸、仕公士百十三人、仕福胤公士十一人、侍町・大町・横町・雑賀町・番匠町等名今尚存〉、

 

----------------------------------------

 

前回のブログにて、北原御殿に隠居した相馬昌胤が享保13年(1728)に亡くなったことを見てみました。本日のところも現代語訳をしてみたいと思います。

 

この村(北幾世橋村)に昌胤公が隠遁すること28年、その村の人びとは恩恵を被り、100年後になっても昌胤公の徳を慕うことは昔のままでした。ちなみに「甘棠(かんとう)」とは、古代中国のとある政治家が甘棠(やまもも)の木の下で人びとの訴えを聞いて、公平に裁いたので、人びとが彼の徳を慕って「甘棠の詩」を歌ったことから、政治家の徳を讃えることを指します。

 

そのあとの〈 〉書ですが、これは一行のところに小さい字で二行に記した「割書」部分です。ここも現代語訳してみましょう。

 

昌胤公存命中、北原御殿の下には村人たちが100戸余りありました。昌胤公に仕えた武士は113人、福胤公に仕えた武士は11人でした。侍町・大町・横町・雑賀町・番匠町等の名称はいま(『奥相志』編纂段階の幕末から明治初年)も遺っています。

 

ここに登場する「福胤公」とは、相馬昌胤の末子であり、昌胤が北原御殿に隠居した後に誕生しました。相馬家の一門である相馬主税家(700石取)の祖に当たります。

 

また、町名ですが、雑賀町以外は現在もありますね。雑賀町はどのあたりだったんでしょうか??