調査日誌162日目 -北幾世橋村北原御殿について⑥- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年4月11日。

 

『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)に記載された北幾世橋村に存在した北原御殿について見ています。北原御殿とは、江戸時代の藩主である相馬昌胤が泉田村(現在の浪江町大字北幾世橋)に居を構えた隠居所のことです。

 

かなり長文なので、何回かに分けます。適宜、読点を付します。

 

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宝永六年己丑正月打它雲泉含 命、上京謁中院内府通茂卿、請和歌、即詠一首、書色紙、授之、今尚存公府、

跡たへしなからもあるを幾世橋いくよかはらすふり残るらん

        槐下八旬老翁通茂印

        従一位前内大臣源通茂也

右歌入通茂卿所撰之老槐集、

 

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宝永6年(1709)正月、昌胤公の命で打它雲泉は上京して、公家の中院内府通茂卿に拝謁しました。そして、和歌一首を詠んでもらい、色紙に書きました。その和歌が「跡たへしなからもあるを幾世橋いくよかはらすふり残るらん」という「いくよはしの歌」です。現在、大聖寺境内に碑がありますね。

 

ここに登場する打它雲泉については以前のブログでも書きましたが、奥相三十三観音の「御詠歌」を詠んだ相馬藩和歌所の打它光軌(うったみつのり。雅号は雲泉)のこと。

 

 

また、公家の中院内府通茂卿とは、当時の堂上歌壇の第一人者。政治的には朝幕関係を調整する武家伝奏に任じられて、内大臣(内府)にまで昇進しました。この和歌は中院通茂の「老槐集」に収録されているようですが、「国書データベース」でざっと見た限り、該当の歌は見つからず。もう少し時間を掛けて確認してみたいと思います。

 

あ、公家については拙著をご覧ください🤩