調査日誌160日目 -北幾世橋村北原御殿について④- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年4月9日。

 

『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)に記載された北幾世橋村に存在した北原御殿について見ています。北原御殿とは、江戸時代の藩主である相馬昌胤が泉田村(現在の浪江町大字北幾世橋)に居を構えた隠居所のことです。

 

かなり長文なので、何回かに分けます。適宜、読点を付します。

 

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爰従官第宅環繞城垣外、連牆對門鬱々壮々、時閭閻撲地市廛稠蜜、百物阜通、遐通(ママ。邇)商賣常輻湊、旅寓酒肆茶寮一無不備、繁栄実翹楚闔國、 府君其他遺芳餘烈奮奕世、可悲、白駒隙易過、于時享保十三戊申年季秋罹病、荏苒湯薬無験、享年六十八、十月六日薨、同十二月六日葬于満海崇徳山興仁寺、

 

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めちゃくちゃ難解なんで、詳しく現代語訳してみたいと思います。

 

ここに家臣たちの邸宅を北原御殿の外にめぐらして、家臣たちの家の垣根が連なって、木々が鬱蒼としています。時に人びとが市場や店が並んで、様々な品物が流通することとなりました。遠くや近くの人びとが商売するために常にやって来て、旅館や酒屋、茶屋などひとつとして備わっていない店はなく、繫栄することは藩内において最も抜きんでていました。

 

殿様(相馬昌胤)のそのほか業績もずっとたたえられていましたが、悲しいことに時の経過はまことに早く、享保13年(1728)病となり、日々薬や温泉などで治療するもののその効果なく、享年68歳で、10月6日に亡くなってしまいました。12月6日、北幾世橋村満海の崇徳山興仁寺に葬りました。

 

それにしても難解な文章でした😅