調査日誌147日目 -標葉長治が語った行津・星神社とは- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年3月27日。

 

昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。鈴木松五郎宛標葉長治書状について翻刻しました。標葉長治は若松第一尋常高等小学校の校長です。

 

前回までで標葉長治書状に付けられていた「記」という標葉氏の由緒を自身で記した由緒を翻刻し終わりました。要するに、標葉長治の家には中世標葉氏の末裔であるという口伝は遺っているが、古文書や古記録の類はなかったという点、出身地である行津(現在の南相馬市小高区行津)の星神社に関係があり、元神職である天野氏よりも中世標葉氏の末裔であるのだから勉強して名を挙げよと言われていた点、以上が標葉長治の標葉氏に対する矜持を意識化するようになったことがうかがました。

 

では、この星神社とは何か。『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)小高郷行津村の項目から確認してみたいと思います。

 

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星宮 在宮下、宮方一間、額文薮〈脇本氏也〉、鰐口〈九寸、正長二己酉年井戸川作十郎寄進之〉、鈴〈元禄十丁丑年大和田勘右衛門寄進之〉、社地山〈十一間・五間、有圍飾之木〉、石橋〈末永半兵衛斯親寄進之〉、有花表、社傍有神木大杉〈五圍計〉、社田一石、社司云、當社延暦十一壬申年勧請之𦾔社也〈至明治二己巳年千七十八年也、有明證乎、不審〉、

所祭天御中主尊・保食神二座、例祭三月十三日・九月十三日、祠官天野岩見正

 

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星神社、近世段階では「星宮」と称されていました。別当寺はなくて、神職として天野岩見正という人物が務めています。但し、堂宇に構えられた鰐口が設置されているようで、正長2年(1429)に井戸川作十郎が寄進したとのこと。ずいぶん古い鰐口があったんですね。いまでも遺されているのでしょうか?? 一方で元禄10年(1697)に大和田勘右衛門が寄進したようです。井戸川・大和田ともにどのような人物かは不明。苗字から見て行津村やその周辺の人物と目されます。

 

社地としての山が11間×5間。山といっても規模が小さいんですが「圍飾之木」とは何でしょう?? また、石橋があったようで、これは近世に在郷給人に取り立てられた末永半兵衛による寄進。その他、花表(=鳥居)があったり、社殿横に神木の大杉があったりします。ちなみにこの大杉は市の指定天然記念物です。

 

創建の由緒ですが、延暦11年(792)。詳細な縁起は遺されていない模様です。祭神は二柱でひとつは天御中主尊(アマノミナカヌシノカミ)。近世以降の妙見信仰との関連をうかがわせます。もうひとつは保食神(ウケモチノカミ)。食べ物の神様ですね。

 

さて、『奥相志』の記述からは標葉氏との関係は全く見えません。近世後期に何か関係があるようなら、ここに記載されているでしょうから、標葉長治が記した「記」の記述は近代になって形成されたものかもしれません。もっと言えば、標葉長治少年が当時の神職から勤勉を求めるため、典拠もなく語られた標葉氏伝承が、彼のなかで結び付けられて創出された可能性があります。

 

但し、行津村には標葉氏伝承があるので、それは次回のブログで検証してみたいと思います。