調査日誌148日目 -行津村の標葉氏の古舘- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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2024年3月28日。

 

昭和8年(1933)の標葉氏顕彰運動に関わる古文書を見ています。浪江町川添地区の正西寺の標葉氏墓地群です。

 

この顕彰運動に関わった若松第一尋常高等小学校の校長の標葉長治が記した資料を分析し、さらに深掘りしていたら、前回から浪江町を飛び出して南相馬市小高区行津のネタになってしまいました😅 すみません、もう一日お付き合いください💦

 

前回は標葉長治が由緒を語った行津村(現在の南相馬市小高区行津)の星神社(星宮)について『奥相志』(東京大学史料編纂所蔵写本4141.26-20。原本は相馬市指定文化財)から検証しましたので、本日は行津村古舘について見てみたいと思います。

 

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古舘 在鹿嶋舘、傳云、當標葉領地之時、標葉清隆弟小太郎隆範居焉、標葉氏泯後室原伊勢居舘云〈伊勢標葉人、降于相馬〉、建鎮守鹿宮(ママ)于二郭、故名鹿嶋舘云、

 

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この古舘があるのは行津村鹿嶋舘というところ。現在でも行津にも鹿嶋舘という小字が確認でき、星神社の南側に当たります。この古舘とは、もともと標葉清隆の弟である小太郎隆範が居館を構えていました。なるほど、相馬氏に備えるための位置に清隆は自分の弟を配置したんですね。

 

標葉氏による領有が終焉を迎えた後、標葉氏の重臣であった室原伊勢が相馬氏に仕えて、ここに住したようです。ちなみに『奥相志』の室原村の項目によれば、室原伊勢清隆(くしくも標葉清隆と同じ名前)の父である室原摂津守隆宗は標葉氏滅亡後、岩城氏を頼り、相馬氏を討とうとしましたが、それが叶わず、相馬氏に降ったそうです。

 

いまはこのあたりに遺構はないのでしょうか。国道6号線沿線に位置します。