調査日誌352日目 -相馬充胤について②- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2022年2月27日。

 

浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊

前回は西台共同墓地入口の「故従四位中村藩主相馬充胤公」碑を何故西台村(現在の浪江町西台)・藤橋村(現在の浪江町藤橋)の人びとが充胤の四十九日に建立したのかを考えるため、相馬充胤の誕生から藩主就任までを見てみました。

 

 

天保7年5月には大和郡山藩主である柳沢保泰の娘との縁談がまとまりました。『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)には「永子夫人」と記されています(178頁)。また継室として陸奥守山藩主の松平頼升(よりのり)の娘、遠江掛川藩主の太田資始(すけもと)の娘も充胤のもとにやって来ています。

 

ところで、充胤は藩主就任直後から「御巡村」を行っています。例えば藩主となった天保6年(1835)9月には山中郷を廻っています。天保6年といえば天保の飢饉の最中です。村々の様子を視察するとともに若き新藩主としての威光を示す目的が垣間見えます。翌天保7年には2月・5月・6月と視察し、家老の池田八右衛門へ指示を出しています。とはいえ、災害時にたびたびの視察って領民からしたら迷惑だと思うんですが😅

なお、充胤はその後も「御巡村」を繰り返していますから、権現堂村をはじめとして、今回の石碑を建立した人びとが住む西台村・藤橋村にも来訪したのかもしれません。現在のところ資料上で権現堂村に充胤が来訪したことが確認できるのは、以前のブログで検証しました家老である熊川兵庫の日記『官私日誌之二』元治元年(1864)5月29日条に記されている記事です(『相馬市博物館資料叢書第四輯 旧相馬藩家老熊川家文書(二) 熊川兵庫日記』、相馬市教育文化センター、1987年)。

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調査日誌348日目 -殿様が浪江宿にやってきた②-