2022年2月23日。
浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊
前回のブログでは相馬中村藩の家老である熊川兵庫の日記『官私日誌之二』元治元年(1864)5月29日条から、前藩主である相馬充胤が浪江宿に来た時の記事を検証してみました(『相馬市博物館資料叢書第四輯 旧相馬藩家老熊川家文書(二) 熊川兵庫日記』、相馬市教育文化センター、1987年、87頁)。
前回までのお話し😄
前藩主の充胤は29日に熊宿(現在の大熊町熊)→新山宿(現在の双葉町新山)を経て、四ツ半時(午前11時頃)に浪江宿の御殿へ到着しました。家老の熊川兵庫は先に浪江宿に着いて、充胤を待っていました。到着した充胤は代官以下の面々の御目見えがあり、また近隣の農家で出精している者に対して「力農」と記された浅黄色の手拭を与えています。
では、この続きの記事を検証してみたいと思います。
(元治元年5月29日条)
一、亭主甚左衛門幷受戸村浜屋杢左衛門等
鯛献上ノ事、
一、甚左衛門被召出、御酒被成下、其上御盃
・猪口、且鯛一枚被成下、感涙ニテ御礼
申出候事、
一、代官・郷目付・御仕法掛吟味役被召出、御
意熊川同様ノ事、
一、御供揃ノ時、雄左衛門同道御先え出立、小
高御小休、鈴木重郎治宅着、御待申上居
候事、
一、間もなく御着、御守被下、幷力農十人御手
拭被下、惣テ浪江町同様申渡候事、
浪江宿の御殿を守っている渡部甚左衛門と受戸(請戸。現在の浪江町請戸)村浜屋杢左衛門などが前藩主の充胤に鯛を献上しました。受戸村の浜屋杢左衛門は在郷給人です。その後、渡部甚左衛門が召し出されて御酒を下されています。この時、甚左衛門は感激のあまり、涙を見せました。そして、代官などが召し出されました。
浪江宿で前藩主の充胤の供を備える際、家老の熊川兵庫は小高宿へ先に行って、待っていました。そして、小高宿でも浪江宿で御守りと「力農」手拭が下賜されました。