調査日誌347日目 -殿様が浪江宿にやってきた①- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2022年2月22日。

 

浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊

前回のブログでは相馬中村藩の家老である熊川兵庫の日記『官私日誌之二』元治元年(1864)5月27日条から、北幾世橋村の興仁寺(現在の大聖寺の場所)の相馬家墓所を代参した記事を確認してみました(『相馬市博物館資料叢書第四輯 旧相馬藩家老熊川家文書(二) 熊川兵庫日記』、相馬市教育文化センター、1987年、85頁)。この代参は相馬中村藩主の相馬充胤から嫡男の秊胤(ともたね。後の誠胤)に代替わりする報告を先祖にするためのものでした。北幾世橋村の興仁寺での代参を済ませた熊川兵庫はその足で熊宿(現在の大熊町熊)に向かいます。これは江戸から戻る相馬充胤を出迎えるためです。

 

翌28日、相馬充胤は熊宿に到着。翌29日に熊宿を出立して、さらに北へ、城のある中村(現在の相馬市中村)へと目指します。出迎えた熊川兵庫は先に出立して、充胤が宿泊する浪江で出迎えることとします。今回は熊川兵庫の日記『官私日誌之二』元治元年5月29日条から隠居が決まったばかりの前藩主である充胤が浪江に到着するまでの記事を検証してみたいと思います。

 

 (元治元年5月29日条)

 一、今朝六つ時過御立、(中略)新山ニテ富沢利

    右衛門え御小休ニ付、此処より御先え抜け、

    浪江町御休渡部甚左衛門宅え着、御申上居

    候事、

 一、右御小休富沢家ニテ手酒献上、御受被遊候

    由ニテ、御緩々御出立、四つ半頃浪江町御

    殿え御着、代官等御迎ノ面々中小性披露例

    ノ通、次ニ郷中村々肝入え御守御渡、並力

    農十人御手拭被下、熊駅同様申渡候事、

     但右手拭ハ浅黄地ニ力農と二字楷書ニ染

     出し候、尤定公様御隠居御下りノ時御例形

     也、

 

前藩主充胤は熊宿を朝六ツ時(午前6時頃)に出立します。そして新山宿(現在の双葉町新山)で小休止を取るため富沢利右衛門宅に入ります。富沢利右衛門は新山の在郷給人です(『双葉町史資料シリーズⅤ 南標葉郷寛文延宝開発給人系図』双葉町教育委員会、1989年、64頁)。熊川兵庫は先に出て、浪江宿の渡部甚左衛門宅に向かい、ここで出迎えることとしました。渡部甚左衛門は権現堂村の在郷給人であり、浪江宿の御殿(藩主の宿泊施設)を管理している人物です。

小休止の予定が新山の富沢利右衛門より酒を献上されたためか、出発がのんびりしてしまい、四ツ半時(午前11時頃)に浪江宿の御殿へ到着しました。御殿の場所は現在の福島銀行浪江支店の敷地あたりです。

 

前藩主充胤は代官以下の面々の御目見えがあり、また近隣の農家(北標葉郷の村々か)で出精している10名に対して「力農」と記された浅黄色の手拭を与えています。手拭の下賜については定公(相馬益胤。充胤父)が隠居した際の例に従ったということです。「力農」手拭、どこかに遺されていないのでしょうか😄