2021年11月1日。
浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊
YouTube版「『大字誌 浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」第6回目を配信しました😄 第6回目は「浪江駅換線碑③」です。
このブログだと関係する記事は以下の通りです。
「浪江駅換線碑」については3回に分けて動画を作ることにしまして、今回はその最終回です。
前回は「浪江駅換線碑」の本文について検討してみました。本文は以下の通りです。
浪江駅換線碑
初本駅火災屡作、至于安政六年二月大火適西風旦暴、
比屋延焼、一駅煨燼、蓋当時官道駅舎為東西線、而西
有峻山重嶺、毎火発山飇壱掃、災及闔駅、衆之苦之也
久矣、至是旧藩代官和田久太夫・吟味役吉田作内等建
議、改旧駅、以作南北線、位置既改矣、後雖或有火為、
即就撲滅者、皆二人之功為多、駅之蒙恵沢者恐其久而
不伝也、乃来請文、相與勒石表、其功以告後人、後人亦
将有感於斯乎、
今回は何故、明治15年(1882)に「浪江駅換線碑」が建立されたのかについて検討してみました。建立の理由は大きく分けて2つが考えられます。
第一に、安政6年(1859)2月に起きた浪江大火から20余年を経て、大火や「換線」の記憶が薄れたり、その記憶を持たない世代が多くなってきたこと。災害と「復興」を後世に遺すために建立したことが考えられます。。
第二に、「換線」にも関わらず浪江の宿場の大火は減らなかったという事実があります。これは「浪江駅換線碑」が建てられる直前の明治12年には22戸、明治13年8月8日には16戸が焼失する大火が発生しています。「換線」は必ずしも浪江の大火を抑えることはできなかったため、「換線」という歴史的な業績を石碑として可視化することで、浪江の人びとに防火意識を惹起させようとしたという点が考えられます。
ただ、建立後も浪江での大火は減っていません。鈴木益雄氏による「浪江消防史」(『浪江町近代百年史』1、浪江町郷土史研究会、1984年)によれば、明治35年に35戸、明治36年に40戸、明治39年に24戸焼失した火災が見られます。