調査日誌233日目 -『奥相志』大堀村の記述から『標葉老談』の編者・山田紀元を考える- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年10月31日。

 

浪江町大字権現堂について研究中の西村慎太郎です😊

ここのところ取り上げている北標葉郷の地誌『標葉老談』(東京大学史料編纂所蔵磐城誌料4141.26-23)、前回のブログでは編者である大堀村山田紀元について再び検討してみました。「再び」というのはすでに一度はザックリと検討したので😅

調査日誌228日目 -『標葉老談』の編者・山田紀元について-

 

山田紀元について、前回までに次のことが判明しました。

①大堀村の在郷給人である山田鉄三郎のこと。

②山田鉄三郎については『奥相志』には知行高の記載がない。

③大堀村字中平に居住している。

④嘉永5年(1852)に川添村(現在の浪江町川添)の華光院に標葉清隆・隆成父子と山田氏の先祖である山田和泉光秀の墓を修繕した(建立とも記されています)。

 

そこでここでは原点に立ち返って、『奥相志』(『相馬市史 4 資料編1』相馬市、1969年)の大堀村の項目を見てみたいと思います。そうするといろいろと気になる記述が目に付きます(1161頁~1166頁)。

 

例えば、山田鉄三郎が住した字中平ですが、ここは「古舘」というところで、ここの田んぼからは石鏃が出土したそうです。この石鏃は「山神争戦」で用いられたものとか、田村将軍が「東夷」征伐の時に用いたものであるとかという説が記載されています。

また、中平には山田氏の守神である三光明神・稲荷明神が鎮座していて、権現堂村の神職である末永近江が管理していました。現在でもゼンリンの地図を見ると字中平に神社が描かれています。

 

そして、もうひとつ大堀村には興味深い記述があります(1165頁)。「古碑」として記されたものです。

 

 古碑 後畑に在り、山田紀元云ふ、山田氏の祖

     和泉光秀の碑なりと、

     嘉永五壬子年紀元古主標葉氏及び山田

     氏祖の碑を華光院に建つ、

 

ここに見える字後畑は字中平の東隣。ここに「古碑」があって、山田氏の先祖である和泉光秀の碑であると山田紀元自身が語っています。この字後畑と嘉永5年に修繕した華光院の墓碑との関係はどんな感じなのでしょうか?? 見られるものなら見てみたいところです。

 

そういえば、標葉清隆・隆成父子と山田氏の先祖である山田和泉光秀の墓がある華光院って明治になって統合され、この地には大堀村から正西寺がやってきて、現在に至るんですよね。このあたりも何か由来があるかどうか、このあたりは今度ぜひ御住職にお伺いしたいところです(何か一次資料がないか期待!!😄)。

 

2021年5月5日撮影。正西寺境内地の「標葉氏墓碑銘」(昭和8年建立)