調査日誌(勉強中)55日目 -浪江神社の「浪江駅換線碑」- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年5月6日。

 

さて、浪江町権現堂、

大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

 

前回は権現堂村字宮の上に所在していたまぼろしの熊野宮について触れました。神社といえば浪江町の鎮守である浪江神社が著名ですが、浪江神社には安政の浪江大火後の街区変更を紀念した「浪江駅換線碑」が遺されています。今回はこの碑文を見てみたいと思います。

 

   浪江駅換線碑

 初本駅火災屡作、至于安政六年二月大火適西風旦暴、

 比屋延焼、一駅煨燼、蓋当時官道駅舎為東西線、而西

 有峻山重嶺、毎火発山飇壱掃、災及闔駅、衆之苦之也

 久矣、至是旧藩代官和田久太夫・吟味役吉田作内等建

 議、改旧駅、以作南北線、位置既改矣、後雖或有火為、

 即就撲滅者、皆二人之功為多、駅之蒙恵沢者恐其久而

 不伝也、乃来請文、相与勒石表、其功以告後人、後人亦

 将有感於斯乎、

  明治十五年十月

              旧藩郡代 錦織積撰

              藩村目付 鎌田彦之丞

              旧肝入  鈴木弥右衛門

              此碑世話人志賀民蔵

 

 

明治15年(1882)10月に建てられた「浪江駅換線碑」は撰文を錦織積(晩香)が記していて(錦織晩香については別に述べたいと思います)、次のような内容になっています。

 

「浪江町では火災がしばしば起きていた。安政6年(1859)2月の大火では西風が猛威を振るって、家屋に延焼し、町のことごとく焼き尽くしてしまった。当時、街道は東西に走っていて宿場が形成されていたが、西に険峻な高い山が連なり、火災が発生するたびに山からのつむじ風が起きて、宿場に火災をもたらす。人びとはこの苦しみをずっと抱えたままだった。そこで藩の代官和田久太夫と吟味役吉田作内たちが協議して、東西から南北に宿場を改めることとした。のちに火事が起きたとしてもすぐに消し止めることができたのはこの2人の功績が大きい。浪江町の恩恵を被る人びとはこのことを長く伝えないことを恐れている。そこでみんなで石にこのことを刻み込んで、後世の人びとに彼らの功績を伝える。後世の人びともまた我々の気持ちを感じてほしい」

 

浪江町のもともとの宿場(東西線)とは現在の国道114号線沿い、安政の浪江大火後に「換線」した南北線は現在の新町通りに該当します。安政の浪江大火に伴う「換線」によって火災が少なくなったことを讃えるために建立されたのがこの「浪江駅換線碑」でした。

 

では、何故、明治15年というタイミングで「浪江駅換線碑」を建立したのでしょうか。

明確に建立の理由を記した資料は管見の限り確認できません。

しかし、可能性としては2つの理由が想定されます。

 

第一に、安政の浪江大火から二十余年を経て、大火や「換線」の記憶が徐々薄れたり、その記憶を持たない世代が多くなってきたこと。災害と「復興」を後世に遺すために旧藩の重臣であるとともに近郷で最も名高い学者である錦織晩香の手を借りたことは想像に難くありません。

 

第二に、「換線」にも関わらず浪江の宿場の大火は減らなかったという事実も想定されます。すでに以前のブログでも述べたように鈴木益雄氏による「浪江消防史」(『浪江町近代百年史』1、浪江町郷土史研究会、1984年)では、実に多くの明治時代の浪江における大火が記されており、「浪江駅換線碑」が建てられる直前の明治12年には22戸、明治13年8月8日には16戸が焼失する大火が発生しています。「換線」は必ずしも浪江の大火を抑えることはできませんでしたが、「換線」という歴史的な業績を石碑として可視化することで、浪江の人びとに防火意識を惹起させようとしたのかもしれません。