調査日誌(勉強中)127日目 -藤橋村へ移り住んだ移民関係の先行研究を読む- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年7月17日。

 

浪江町大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

前回は『福島民報』に掲載された(ちょっと権現堂を離れて)谷津田の古文書の解釈について、天明の飢饉から「復興」していない文政元年(1818)の様相について記しました。

このあたり、権現堂村ではどうであったか、なお検討の余地はありますが、文化14年(1817)に幕府に対して宿場における「駅々人馬賃割増願」を提出していることからも、権現堂村=浪江宿がたいへんな状況であったことは想像に難くありません。

調査日誌(勉強中)43日目 -相馬藩内の宿場の困窮(ちょっと長めの資料紹介)-

 

やはり天明の飢饉における「復興」という問題を考える上でも、もう少し19世紀前半の様相を検討してみたいと思います。となると、そのあたりが明らかになる一次資料があるといいのですが、今のところ見当たらず😥

もう少し先行研究から追える点を考えてみたいと思います。

 

そうなるとやはり以前のブログでも確認した北陸地方からの移民に関する研究が重要になると思います。

調査日誌(勉強中)75日目 -相馬藩の真宗信徒移民-

 

相馬藩の移民政策について、古くは岩崎敏夫氏をはじめとして、近年では岩本由輝氏の精緻な研究、各自治体史の記述が見受けられます。

簡単に振り返ると、文化年間(1804~1818)相馬藩家老・久米泰翁は移民による新百姓取り立てを推進することを建策し(史料典拠確認中)、文化7年・8年には北陸地方の浄土真宗の僧侶が来訪して草庵を営み、移民招致に一役買うこととなりました。真宗僧侶が中心になって、近世後期に相馬藩領に多くの北陸からの人びと(真宗信徒)がやってきて、天明の飢饉後の農村復興に当たったと評されています。

 

今回は岩本由輝氏の「一事例を通してみた陸奥中村藩における浄土真宗信徒移民の受容」(『東北学院大学東北文化研究所紀要』27、1995年)という論文を読んでみて、論点と新たに得られた知見をまとめておきたいと思います。

 

この論文の課題は、移民として人びとへ藩からの給付や貸付を検討し、「移民の受容の実態」を検討するというものです。結論としては藩は移民に対して「優遇策」を取っていたことを明らかにしました。ここで用いた史料は「御預地百姓御手宛諸品渡通帳」というもので、越中国砺波郡北野村(現在の富山県南砺市北野)から標葉郡藤橋村(現在の浪江町藤橋)へと移り住んだ三次郎家に伝来したものです。

 

三次郎家は妻と娘3人の5人家族で文政11年10月に移り住みました。谷田村(現在の浪江町谷津田)の宗右衛門親類で、井手村(現在の浪江町井手)の在郷給人松本助十郎利恭が世話をしたようです(偶然にも今回のブログでも谷津田が登場してきました😄)。

岩本氏による「御預地百姓御手宛諸品渡通帳」の分析によれば、移り住んだ当初に膳椀や柄杓、庖丁などとともに白米1升が与えられています。これらにはそれぞれ銭の額が記されていて、これを「価格表示」と岩本氏は評価していますが、給付された物品に価格表示をする必要があるかどうか、検討の余地があるところですね。その後も蒲団や味噌、すり鉢、土瓶、鍋、釜などが次々と支給されています。

興味深い点としては12月9日に「古家買代坂田村六右衛門渡り」の分が「御寺へ上ル」として抹消されている点で、この「御寺」とは当時権現堂村へ隠居したばかりの常福寺恵敬(南相馬市原町区の方にある常福寺です)に渡されることとなったため、抹消されたようです。一度は三次郎に渡された「古家」とは現在の常福寺のところだったのでしょうか?? 詳細は判然としませんが、ここで三次郎と権現堂村の接点が出てきましたね😄

 

さかのぼって、11月には万能鍬と山刀が給され、翌年になると苗代や鰯粕も給付されており、本格的な農作業が始まることとなりました。移民の人びとに与えられた土地は「片付地」と称された荒地でそこの開墾が進められました。後年、天保検地によって天保12年(1841)に確定した三次郎の持高は、

 

 ・田7石6斗7升4合8勺(9反1畝11歩)

 ・畑2斗7升(6畝)

 ・屋敷3升6合4勺(4畝15歩)

 

にまで及びました。かなりの土地を与えられたとともに、自身で開墾したことがうかがえます。移り住んでから5年間は無年貢、6年目からは年貢が付加されました。

また、藩からの給付額の総額は金2両1朱・銭82貫961文でした。この段階では金1分=銭1貫560文換算だったようで、総額15両以上に及んでいます。この全額が藩からなのか、地域からなのかは検討すべきですが、かなりの額であったといえます。

 

常福寺 2021年5月5日撮影