調査日誌(勉強中)75日目 -相馬藩の真宗信徒移民- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

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旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年5月26日。

 

さて、浪江町権現堂、

大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

 

前回のブログでは近世後期に開かれた明徳山常福寺について述べました。浪江宿の中心地に建立された常福寺の恵敬はもともと越後国出身で、移民招致に尽力した恵敬は130軒の新農家を招いた功績が評価されて、常福寺再建に至りました。では、相馬藩の移民政策とはどのようなものでしょうか。最初に先行研究を提示した上で、その具体相を述べたいと思います。

 

相馬藩への移民について、古くは岩崎敏夫『本邦小祠の研究』(岩崎博士学位論文出版後援会、1963年、のちに『岩崎敏夫著作集』、名著出版、1984年)をはじめとして、『福島県史』や浜通りの自治体史にも記載があります。また、以下のように研究もあります。

 

・岩本由輝「移住と開発の歴史」(『日本歴史民俗文化大系』6、小学館、1984年)

・岩本由輝「浄土真宗信徒移民経路についての一考察」(『山形大学紀要社会科学』19-1、1988年)

・岩本由輝「一事例を通してみた陸奥中村藩における浄土真宗信徒移民の受容」(『東北学院大学東北文化研究所紀要』27、1995年)

・岩本由輝「近世陸奥中村藩における浄土真宗信徒移民の導入」(『村落社会研究ジャーナル』17-2、2011年)

・千秋謙治「砺波農民の相馬中村藩への移民」(『砺波散村地域研究所研究紀要』26、2009年)

 

また、移民と合わせた新百姓取り立ての論文や相馬郷土研究会による『相馬郷土』には多くの事例紹介や史料紹介が確認できます。大字権現堂をはじめとした浪江町域の場合、『浪江町史』(浪江町教育委員会、1974年)や佐々木武士「浄土真宗信徒の移民」(『浪江町近代百年史』2、浪江町郷土史研究会、2986年)があります。

今回は岩本由輝「近世陸奥中村藩における浄土真宗信徒移民の導入」や『双葉町史』通史編(双葉町、1995年)に基づいて、浪江町域にも多くの人びとがやってきた相馬藩への移民と移民政策について確認してみたいと思います。

 

相馬藩は元禄11年(1698)に9万人近い人口がありましたが、天明6年(1786)までに3万6千人余りにまで減少してしまいます。そこには天明の飢饉によって亡くなった方もいましたが、農村荒廃が原因で土地を離れた人が多いものとおもわれます。 

文化年間(1804~1818)相馬藩家老・久米泰翁は移民による新百姓取り立てを推進することを建策し(史料典拠確認中)、文化7年・8年には北陸地方の浄土真宗の僧侶が来訪して草庵を営み、移民招致に一役買うこととなりました。前回のブログで見たように、越後国からやってきた恵敬が原町宿に草庵を構えて、文化15年に常福寺として寺号が与えられました(のちに恵敬は浪江に隠居し、浪江の草案が嘉永6年(1853)も常福寺と号することが許されました)。

 

この移民推進について岩本氏はもともと北陸の人びとが関東へ移民する際、僧侶がその招致に重要な役割を果たしましたが、もともとの住民が住んでいた加賀藩と移民先の笠間藩との間で紛争に発展し、笠間藩で移民招致を推進した西念寺良水が文化5年に自害したことで、相馬藩へと流れてきたと推測しています。そして浪江にも続々と真宗の移民がやって来て、ついには69世帯に及びました。

 

このように近世後期に相馬藩領に多くの北陸からの人びと(真宗信徒)がやってきて、天明の飢饉後の農村復興に当たったこと、そこに常福寺をはじめとした真宗寺院が多く関わったことが研究史で明らかにされています。

多くの研究が発表されていますので、まずは基礎作業としてそれらの内容を確認とともに、典拠史料を見返してみたいと思います😊

 

【権現堂字町場の明徳山常福寺。2021年5月5日撮影】