調査日誌(勉強中)43日目 -相馬藩内の宿場の困窮(ちょっと長めの資料紹介)- | 『大字誌 浪江町○○』調査日誌

『大字誌 浪江町○○』調査日誌

旧「『大字誌浪江町権現堂』編さん室、調査日誌」のブログ。2021年3月12日より『大字誌 浪江町権現堂』(仮)を刊行すべく活動をはじめました。2023年11月1日より町域全体の調査・研究のため新装オープン。

2021年4月24日。

 

さて、浪江町権現堂、

大字権現堂について勉強中の西村慎太郎です😊

 

前回のブログでは北標葉郷の年貢米がどの程度権現堂村の陣屋に集まるかを検証しました。

このように江戸時代の年貢米の集積地であった権現堂村=浪江宿(浪江町)ですが、

様々な物資が集まる交通・流通の要衝でした。

 

 

そして江戸時代後期の浜街道の権現堂村の交通・流通が分かる文書が、

『相馬藩政史』上巻(相馬郷友会、1940年)710頁~711頁に掲載されているので、

長文になりますが、その内容を分析してみたいと思います。

(長文なので、その下のところまで飛ばしても構いません😅)

 

      駅々人馬賃割増願

 一、私領陸奥国宇田・行方・標葉三郡内熊川・新山・長塚・高野・小高・

    原ノ町・鹿島・中村・岩井右九ヶ村宿者、水戸通より仙台領陸奥筋

    之街道駅場に候処、一体辺鄙之事故、往来筋農業已而世(ママ。

    渡世ヵ)仕罷在候処、天明三卯年古今稀成る凶作、其上疾病流行

    仕、死亡跡縮々(ママ。宿々ヵ)数多有之、人別抜群相滅、殊に度

    々焼失之宿有之、連年困究仕候付、猶又荒地開作等も誠精申付、

    此節田畑発返し手段専一に為取掛罷在候処、近年奥筋諸家之家

    来往復繁罷成、少(ママ)困究之宿々人馬為継立、農業働之隙を

    費し、専心掛候荒地開作之趣意も自然と怠に相成、手余し地所出

    来候程之儀、右体難渋之者共まて宿役相掛候得共、迚も農業出

    精仕、困究取直候儀にも相至兼、心外難渋相増、此末行立へく様

    も無御座候趣にて、十ヶ年間人馬賃銭五割増之儀、時々願出申立

    候得共、理解申聞、手当等も仕、何分相凌候様申付置候、然る処

    近年奥筋へ諸往来猶又繁罷成、殊人馬年々相減候得共、民力次

    第に衰、迚も此上可取続手段無之、不得止之事、右割増願申立候

    に付、猶以て相糺候処、前書之通り相違無御座候、全体右宿々之

    者百姓第一心得罷在候処、往来繁相成候に付ては、少々人馬先

    触有之候ても、他之村々寄人馬仕候事にて、右駅々は勿論一続之

    難渋に相抱(ママ。拘ヵ)申候、殊に専心掛居候農業を止め、人馬継

    之(ママ。立ヵ)等に取掛、迚も作方之勢力薄く、其上継立人馬手当

    賃銭之外足銭等仕候次第、秘至と及困究候、人少之駅場宿役に

    苦相重り可取継候様無御座、追々潰百姓も出来可申儀、右宿々願

    之通賃銭割増被仰付下候得は、下々自力を以て百姓相続仕、宿役

    等も夫々行届、随て荒廃之地所開作相遂候基にも罷成可申候、依

    之当丑年より来る戌年迄十ヶ年之間、人馬賃銭御定之外、五割増

    被仰付被下置候様仕度奉伺候、以上

      文化十四年丑十一月十八日            御名

 

この「駅々人馬賃割増願」は文化14年(1817)11月18日に作成されたもので、

「御名」とあることから相馬中村藩第九代藩主・相馬益胤のことと推測されます。

内容は次のような願いになっています。

 

「相馬中村藩領の熊川・新山・長塚・高野・小高・原ノ町・鹿島・中村・岩井の宿場は、

とても辺鄙なところで往来筋は農業ばかりやっています。

 

天明3年(1783)の凶作や流行病のため多数の死者が出た宿場もあり、人口が減りました。

特にたびたび火災に遭った宿場もあってずっと困窮してきました。

 

そこで荒地の開墾などを奨励して取り掛かりましたところ、

近年、東北地方の大名の家来の往来が多くて困窮の宿場が人馬の継ぎ立てを、

農業の合間に行わなくてはいけないので、開墾も疎かになってしまっています。

貧しい人びとまで宿場の役目を務めなくてならず困窮から立ち直ることがてきません。

これまで10ヶ年の間、人馬の継ぎ立ての際の賃銭を5割増しにすることを願ってきました。

特に近年の往来はとても多いので人びとがさらに困窮しております。

 

このままでは宿場はもちろん村々までもさらなる困窮に陥ってしまいます。

特に農業を一生懸命やっていても人馬継ぎ立てのために作業を中断してしまっては、

困窮してしまい、潰れ百姓も出てしまいます。

 

賃銭割り増しを仰せ付けてくだされば百姓も続けることができ、

宿場の務め行き届きますので、

今年から10ヶ年の間、人馬賃銭御定めのほかに5割増しをしてください。」

 

つまり東北の諸大名家臣の往来が多くなり、

特に天明の飢饉や流行り病、火災によって困窮しているので、

「御定賃銭」(幕府が定めた運送補助のため人足・馬を使用する際に支払う賃銭)を、

5割増しにしてもらいたいという、相馬益胤から幕府への願書でした😊

 

「御定賃銭」の割り増しは災害や物価騰貴、貨幣価値の低下によって、

一定期間行われることが全国的に見られます。

今回は同様の願いが泉藩でも見受けられますので、

この点については追って検証を進めたいと思います🤗