1011日木曜日。晴れ。


いま、泊まってるのは、シュコドラの言わば、ヘソみたいな、環状交差点(ランダバウト=roundabout)のすぐそば。朝起きて、外をのぞいてみると。。。



まず、信号がない。ランダバウトを回る車が優先だけど、お構いなしに、周りの道から車は流れ込んでくる、自転車も歩行者も一緒になって回ってるし、中には逆走する人もいる。さらに、歩行器を押すお年寄りや、松葉杖をついている人も、ランダバウトを真横に横断しようとする。まさに、カオス。。。こんなに交通量多いんだったら、せめて信号つければいいのに。でも、ひと昔まで、しょっちゅう停電が起きてたから、信号のない道路に慣れているんだろうね。


ホテルも、ちょっと変。

天井に星のようなつぶつぶライトがあって、スイッチでオン/オフできて、色も変わる。ラブホテルみたい。。。バスルームのライトは青みがかっていて、見えにくい。さらに、鏡が高すぎて、身長149cmの私は、鼻から上しか見えない。まあ、ブルーライトのせいで、自分の顔色もよくわからないんだけど。

シャワーは、2分おきぐらいに、めっちゃ熱くなり、そして、冷たくなる。まあ、アルバニアだし、仕方ないか。

ちなみに、ここ、Booking.com のレビューで10点中9.6点獲得してるんだけどね。


今日は半日、地元のガイドに街を案内してもらうことになっている。

アルバニアは、第二次大戦後、共産主義に突っ走り、独裁者ホジャが、無宗教主義を提唱し、多くの牧師や宗教家を処刑したり、拘束、虐殺した。


Site of witness and memory 

元、監獄だったところ。

宗教指導者などが投獄され、拷問された。

自分の信条を守るため、壁に指で十字架を描いて、祈りを捧げた。






教会は破壊され、スポーツ施設や映画館などに生まれ変わった。この教会は、共産主義が終わった1990年に建て替えられたもの。




国民を国に閉じ込めるために、隣国と繋がる橋やトンネルを破壊してしまう。ソ連や中国と近づいたと思ったら、離れたり、ユーゴに入るかと思えば、それも拒否。そうして、大戦後約50年間、鎖国状態にあった。

1995年に、独裁主義が倒れた後も、ネズミ講で、銀行が金を持ち逃げして、国民の3分の2が財産を失った。


なんちゅー国や!

国民は、政治に振り回されてひどい目にあってきたけど、知れば知るほど、歴史がまた興味深い。


最近になって、観光業に力を入れ始め、前を向いて進み始めたとのこと。

謎多き国で、まだまだ発展途上だけど、興味深い歴史もあるし、自然が美しい国なので、もっと観光で発展する余地のある国だと思う。


あのマザーテレサも、アルバニア出身。


山の上にある、城塞。

川の下流から、アドリア海の反対側にあるイタリアのヴェネツィア人が攻めてくるのを防ぐのに作られたらしい。


絶景!






シュコドラ湖と、川が美しい。




ランチは、湖沿いのレストランで、ガイドさんオススメの、鯉を食べてみる。

普通のグリルしたものは、後味がちょっと泥くさいけど、私が食べたこの、「石焼きボウル入り、鯉のパプリカ煮込み(英語のメニューでは、carp in tile=タイル入りの鯉)」は、臭みが少なくて、おいしくいただけました。



シュコドラ行きを熱望してた相方さんも、大満足の様子!よかったよかった。


次なる目的地、モンテネグロに向かう。


今回の国境越えは、昨日と違う道を行き、昨日ほど、時間はかからなかったけど、それでも30分ぐらい待たされた。


無事、モンテネグロ入国!

ここから、また約1時間半、ドライブしてちょっと休憩。

Sveti Stefan (スヴェティ ステファン)島。一泊1500ユーロするような、高級ホテルが集まった島。島に徒歩で上陸するだけで、3ユーロぐらい取られるので、遠目から見るだけ。


リゾート地、ブドヴァにもちょろっと寄ってみた。

城壁の中に街がある。


7時近くに、今日の目的地、コトルに到着。


夕食は、ホテルのレストランにて。

メニュー見てびっくり!

すし、刺身、天ぷら。

え、よく見たら、味噌汁7ユーロ(780)、エビ入りうどん24ユーロ(3100)。ぼったくりすぎやろ!

前菜に頼んだマグロの炙り。胡麻油、ぽん酢、にんにくバターしょう油、クロアチア名物トリュフなどなどに浸かって、マグロの味が埋もれてるし!

シェフは、日本でも修行した、フィリピン人らしいけど、あまりにも、モンテネグロナイズされて、これは、和食じゃないね。。

でも、白ごはんを食べられたのはよかった。最近、地中海料理ばっかり食べてたからね。


明日は、コトル観光です。。。


1010日水曜日。晴れ。


朝起きた時点で、外の気温、4℃。寒っ!

今日の目的地の予想は、最高26℃

着るものの調整が難しい。


今日は、サラエヴォを出て、再び、ロードトリップ。


その前に、サラエヴォ郊外のトンネル博物館に寄っていく。


1992年に、サラエヴォがスラブ軍に4年近くに渡って包囲された時、サラエヴォ市内の外れから、市外の民家まで、約800mのトンネルを作って、ここから生活に必要な物資を供給した。

そのトンネルというのが、なんと空港の滑走路の地下を通っている。というのも、空港は国連が抑えていたから、スラブ軍の目につきにくかった。でも、滑走路の下にトンネルを通すなんて、大胆な発想!

800mのうち、25mほどが公開されている。





右手奥に見えるのが空港。


包囲されてた時のイメージは、こんな感じ。


地雷の展示も。




11時ごろ博物館を出たら、ロードトリップへ。

ボスニアから、モンテネグロを抜けて、アルバニアに向かう計画。


ボスニアの都市間の主要道路は、だいたい山の谷間に走っていて、いわゆる高速道路は、ほとんどない。


紅葉がきれい!



途中、街の名前が、キリル文字とローマ字で、道路脇の標識に書いてある。

ドライバーのイヴァンによると、ボスニア政府がキリル文字とローマ字の併用を義務づけているけど、キリル文字を使うスラブ人が、ローマ字の部分をスプレーで消したり、テープで隠したりすることもあるらしい。ささやかな抵抗。。。


途中から、あまり整備されてない、中央線がないような、山道が続き、それを抜けると、モンテネグロとの国境に着いた。ここまで、サラエヴォから2時間ほど。

検問は、ボスニア出国とモンテネグロ入国の2箇所ある。


ボスニア出国の際、係員にパスポートを見せたイヴァンが、なにやら、係員と話している。係員は、厳しい顔をして、車の後部座席の私たち二人をちらっと見て、首を振る。そして、後ろがつかえているので、脇に車を止めるように指示した。

イヴァンに、どういうこと?って聞いてみると、「20ユーロ持ってない?」って言う。どうやら、クロアチアのナンバープレートで、観光客を連れてるということで、足元を見られたのか、いわゆる、ワイロを渡さないと、通してくれないらしい。ボスニア側の国境監視員(セルビア人)の給料は、月500ユーロ程度で、袖の下をもらわないとやってけない!とうことらしい。車1台あたり、20ユーロ。私たちの後ろの車は、ドイツナンバーのセルビア人だけど、前に追突した跡が付いていて、その事故証明書(本当は持ってなくてもよい)を持ってなかったから、ハイ、20ユーロ、ってな具合みたい。ただ国を出るだけなのに、性格悪っ!


振り返って見えた、ボスニア入国側の看板。



次の、モンテネグロ入国の際は、トランクを一応開けて、チェックしたぐらいで、すんなり入れてくれた。ちなみに、モンテネグロの国境監視員の給料は、月350ユーロ。でもワイロを要求することはなく、つまり、給料の額ではなく、品格()の差が見えたってことね。逆に、モンテネグロ側から、ボスニアに入る時は、第一印象、最悪だよね。


ここで、ボスニアの旅は終了。なので、ボスニアについて、ちょっと気のついたことを書いておこうと思う。


トイレ外の公衆トイレは、床に穴が空いていて、両脇に足を載せるところが付いてる、いわゆる和式タイプ⁉︎が多くて、ただ用を足して去るタイプと、壁の下の方に、蛇口が付いてあって、ビーカーみたいなので、セルフサービスで水を流すタイプがあった。ぼっとんと、和式の間みたいな感じかな。当然、結構臭いもするし、ケータイ落としそうだし、紙は便器に捨てちゃいけないし、本当、好きになれなかった。でも生理現象だから、我慢にも限界があるし。。


タバコヨーロッパだから()しょうがないと思うけど、レストランの屋内で喫煙されるのは、気分悪い。(日本も含めて)こういうところが、遅れてるなあと思えてしまう。


さて、国境を超えたところで、ランチタイム。道路脇にある、食堂へ。

中に入ったら、なんと、テレビで女子バレーボールのワールドカップのセルビア対日本の試合がかかっていた!まさかこんなところで!コート脇に出てくる、「日清とろみ上手」「ミキプルーン」「のびのびサロンシップ」なんかの広告を見て、ちょっと故郷が懐かしくなったよ。



モンテネグロという国名は、「黒い山」という意味。

途中、ダムと美しい湖が!一旦、車から出て、写真を撮る。ダムの下が発電所になっていて、海底ケーブルで、イタリアに電気を売ってるらしい。





夕方5時前に、モンテネグロの首都、ポドゴリツァに到着。ちょっと休憩。


東方正教の教会。



やって来る人々は、「仕事帰りに、ちょっと神様に挨拶に来たの」的なノリで、ふらっと立ち寄り、十字架を胸の前で3回切って、キリストのイコンにキスをして、お祈りする。たぶん、「今日もいい日だった。神様ありがとう!」ってお礼言ってる感じ?それか、神様と今日の反省会?キリストは、モンテネグロの人々にとって、結構個人的で身近な存在なのかな。

毎度、ヨーロッパに来ると感じる、宗教の影響力。人々の信仰心、立派な教会を作る技術、その中の装飾品や絵画。改めて、ヨーロッパの発展は、宗教なしでは語れないと感じる。


ポドゴリツァのカフェに寄ったトイレ。極めて普通のトイレなんだけど、半ぼっとんじゃない、清潔なトイレで、心底ホッとした。


少し、ポドゴリツァの街を歩く。

きれいな橋。


ここから、いよいよ、アルバニアへ向かう。

途中までは順調。

しかし、国境にさしかかると、長蛇の列が!

国境を超えて、仕事に行ってたアルバニア人の帰宅時間に当たった、監視員のシフト交代時刻に当たった?、観光バスが大量にいる、のほかに、みんな順番に列をなして、自分の番を待ってるのに、マナーの悪い(主に)アルバニア人が、割り込んでくる。ここは本当にヨーロッパなのか?というマナーの悪さ。


結局、1時間15分かかって、モンテネグロ-アルバニアの国境を通過。(おかげで、この長いブログを書くことができた。)


時間は、午後715分。目的地のシュコドラまで30km。街灯のない道路を、走っていく。イヴァンが、半分テールランプの消えた車を追い越し、追い越し可能区域をわずかに超えて、走行車線に戻った瞬間、警察が路肩に待ち構えていて、私たちの車を停めた。

あぁ、チケット切られる。。。


イヴァンが、免許を見せて、英語もクロアチア語も通じない、アルバニアの警察官相手に、「話してくる」と車から出ていった。

ちょっと緊張して待ってたら、イヴァンがニコニコして戻ってきて、「10ユーロ渡したら、行っていいよって言われた!」だって!警察もワイロで見逃す国かい!モラル低っ!


という訳で、結局、今日の道すがら、約30ユーロのワイロを、ボスニアの国境監視員とアルバニアの警官に渡して、約7時間のロードトリップは、無事終了。やれやれ。


ディナーに、近くのシーフードレストランに行って、意外と(と言ったら失礼だけど)、おいしい魚定食を頂いて、長い一日が幕を閉じましたとさ。



109日火曜日。晴れ。


今日は、サラエヴォ市内観光。


サラエヴォは、昔から、多様な民族や宗教、文化の混じりあった都市で、ざっくり言うと、ボスニア人(イスラム教)、セルビア人(セルビア正教)、クロアチア人(カトリック)、そしてユダヤ人(ユダヤ教)が共存している。


旧ユーゴ連邦は、「7つの国境(イタリア、ハンガリー、オーストリア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャ、アルバニア)6つの共和国(スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ、マケドニア、セルビア、モンテネグロ)5つの民族(クロアチア人、スロベニア人、マケドニア人、セルビア人、モンテネグロ人)4つの言語(クロアチア語、スロベニア語、セルビア語、マケドニア語)3つの宗教(正教、イスラム教、カトリック)2つの文字(ラテン文字、キリル文字)1つの国(連邦国家)(ウィキペディアより)と言われるほどの多様性に富んでいたけど、サラエヴォはその中心だった。


昨日から、歴史や観光名所を予習してたけど、見どころがいっぱいあって、どこから見ていけばよいのやら。。。

ひとまずは、相方のガイドブックに書いてる通りに行ってみることにする。


バシチャルシア。

イスラムの雰囲気漂う職人街。

水飲み場の周りには、ハトがいっぱいで、通称「ハト広場」。

売ってるものも、中近東のものが多く、イスタンブールに来た気分。



イスラム教のモスク。






メインストリートのある地点を境に、東を向けば、イスラムの香り、西を向けば、ヨーロッパの雰囲気になっていて、おもしろい。


ユダヤ教のシナゴーグ。


セルビア正教会。




カトリック大聖堂。


4つの異なる宗教の、祈祷施設が、徒歩5-10分圏内に集まっている。

こんな複雑な場所で、人々がお互いの多様性を認めながらずっと共存してきたなんて、サラエヴォの人々の懐の深さを感じる。(ユーゴ紛争が起きるまでは、の話だけど。)


もともとは、サラエヴォは、400年ほどオスマン朝に支配され、イスラムの雰囲気の濃い街だったけど、1878年に、オーストリア・ハンガリー帝国に支配され、そのたった40年の間に、かなり西洋化された。それが気にくわなかったのが、一部のセルビア人。1914年、事件が起こる。オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子夫妻が、ここ、サラエヴォで、セルビア人青年に暗殺される。


事件現場近くのラテン橋。


その現場。



その後、すぐにオーストリア・ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告して、第一次世界大戦が始まった。

「ヨーロッパの火薬庫」と言われるバルカン半島の中心地、ここサラエヴォから、歴史が動いたってこと。


第ニ次大戦後、ユーゴスラビア連邦ができて、しばらくはカリスマ的指導者、チトーがうまく支配していたけど、彼の死後、80年代後半から90年代にかけ、ソ連の解体とも相まって、独立の気運が高まり、その中で、民族間の不調和と分断が広がった。


92年から始まったボスニア紛争では、スラブ人が、主にボスニア人を排除する民族浄化が行われた。1995711日には、ボスニア東部のスレブレニツァでボスニア・ムスリム人8000人以上が虐殺された。この博物館では、写真や遺族の話をまとめたビデオが展示されている。



この、一見平穏に見える道路は、昔、スナイパー通りと言われ、常にスラブ人兵士が監視していて、どの民族にも関わらず、この道路を横断する一般市民が標的にされ、猛ダッシュで渡らないと、撃たれて死ぬこともあった。


銃弾の跡が、生々しく残る建物の壁。


サラエヴォに周りは、スラブ軍に包囲され、食料や水や電気の供給も乏しくなって、餓死する市民も出てきた。

国連軍が、空から物資を供給し、最後はNATO軍がユーゴ紛争を収めた。


こんなことが、私が中高生だった頃に起こっていたなんて信じられない。日本やアメリカで普通に日々過ごしていると、たとえ、新聞やニュースを毎日見ていても、世界で何が起こっているかなんて、しっかりと理解できない。20世紀の歴史が動いた場所、サラエヴォに来て、実際に自分の目で見て、感じて、やっと少し理解できた気がする。

今、高校の世界史のテスト受けたら、現役の時よりも、断然いい点数が取れそうな気がする。でも本当に、世界史を理解するには、歴史が動いた場所に、実際行ってみないとわからないことが多いと感じた。


今、世界で起こっている戦争、イラクやシリア、ロヒンギャの問題、そういう場所に、今は行けないけど、20年後ぐらいに、そこが平和になった時に訪れて、そうすると、理解がもっと深まるのかなあ。でも、今回のサラエヴォの件で学んだように、20年待たなくても、今、世界で起こっていることについて、もう少し注意を向けて、そこで起こっていることを想像して、何ができるか考えたり、傷ついた人の痛みが、自分の身に起こったら、と想像することだけでも、意味があるんじゃないかなと思った。それが、新たな悲劇を防ぐことにつながる気がする。