臓器移植とクローン人間
こんなとき、あんな本

「人間の行方」 山折哲雄・多田富雄

 「露の身ながら」を読んで感動しました。
もう少し踏み込んでみるかと、柳澤さんの本「永遠のなかに
生きる」、「われわれはなぜ死ぬのか」、「ゲノムが語る生命」
を考え考え読みました。
ちょっと疲れました。

 臓器移植とクローン人間を考えるのに「人間の行方」は、
参考になる本です。

 あなたは、臓器移植をどのように考えていますか。

 脳死判定で臓器を取り出すことを認められますか。

 日本人の伝統的な死生観からいうと人は死んでも“人”である、
“もの”ではない。
ましてや脳死で、からだを“もの”とできるだろうか。

 臓器移植は人の命を救うための医療である。
だが“もの”でない死んだ人から臓器が取り出せるか。
死んだ人から“もの”とする(納得させる判定)がいる。
これが医学的な脳死判定である。

 臓器移植を容認できるかできないかを考えるときの切り口と
して、餓鬼状態になったときの人間の選択のしかたを考えてみる。

 それは2つある。
断食(自分で自分のからだを食べて生き残る)とカニバリズム
(他人のからだを食べる)である。
臓器移植は、後者であろうと山折さんはいう。

 終末期医療のなかで脳死状態になったらどうするか。
死んだ人を“もの”と考えられない日本人への救いとして、
仏教の「捨身供養」というものがある。
自分の終末期は、自己犠牲によって人助けに捧げるという選択
がある。
死に行く人からの「捨身供養」があり、その時を“脳死”で
判定する。
その身体を使わしてもらって別の人が救われる、
それでよいのではないだろうか。

 クローン人間は、どうするか。
クローン人間は創ろうと思えば創れるだろう。
「“自然に反する”といったレベルの根拠で禁止することが、
はたしてできるのか。植物でも動物でも、そのコピーしたものを
どんどん我々は、もう食べている。
そこは許しておいて人間だけは許さないと言えるか。」

 宗教の原点から認められるのか、認められないのか。

 キリスト教:
ダメだと否定できる。
人間をつくったもの、動物をつくったもの神である。
それを人間が勝手に操作するのはいけない。

 仏教:
ダメだと否定できない。
仏陀の思想と根本仏教の考え方は、人間の存在が幻、そもそもが
幻だという認識です。
人間の我々の存在が幻であるならば、そのコピーも同じように幻だ。
人間を創造するのは許されて、コピーを創造するのは許されないと
いうのは、根本仏教の立場からするとおかしい、両方とも幻なの
だから。

 しかし、キリスト教世界で動植物のクローン化は進められている。
すでに神は否定されているのだろうか。
とすると、キリスト教でも、もはや否定できないのではないだろうか。

 養老さんは、「人間は脳の中で考えたことは実現する」と
「唯脳論」で言っています。

 先の「露の身ながら」 多田富雄・柳澤桂子では、モラル崩壊が
始まっているのではないだろうかといっていた。

 さて科学者は、どのように考えているのだろうか。
科学者の倫理観、良心に頼るだけなのだろうか、、、。