「あの人は仕事ができるから大切にされる」「自分はできないから、いてもいなくても同じだ」

「もっと優秀な人間だったら、こんな思いをしなかった」——

こうした考えが、頭をよぎることはないだろうか。

 

これは、自分だけの特別な弱さではない。

 

私たちのほとんどが、意識していないところで「できる人間には価値があり、できない人間には価値がない」

という思想を内側に持っている。

 

これを「優生思想」という言葉で表すと、ぎょっとするかもしれない。

でも、規模の大小こそ違え、日常の自己評価の中にこの構造は静かに潜んでいる。

 


できること・できないことは、どちらも「自分の一部」だ

私たちは、得意なこととそうでないことを持ち合わせながら生きている。

それは当たり前のことだ。

 

ある人は計算が速い。ある人は人の気持ちを読むのが得意だ。

ある人は体を動かすことが得意で、ある人は言葉で表現するのが得意だ。

そして誰もが、どこかに「うまくできないこと」を持っている。

 

これは優劣の話ではなく、それぞれの「構成」の話だ。

できることがあるからこそ光る部分があり、できないことがあるからこそ誰かを必要とし、人とつながることができる。

 

ところが「できないこと=価値がない」という思い込みが強くなると、

できない部分を必死に隠す、あるいはできる部分だけを自分の価値として必死に守ろうとするようになる。

 

どちらも、自分の全体を受け入れられていない状態だ。

 


 

自分を「煽る」か、「隠す」か

できないことを受け入れられないとき、人はふたつの方向に動く。

 

ひとつは、自分を追い立てて「もっとできる自分になろう」とする方向。

「なぜできないんだ」「あの人はできているのに」と、自分を脅しながら前に進もうとする。

 

これが続くと、達成しても安心できず、疲弊し、やがて体や心が限界を迎える。

 

もうひとつは、できない自分を徹底的に見せないようにする方向。

失敗しそうなことには近づかない、挑戦しない、できることだけで自分の世界を固める。

 

これは表面上は「できる自分」を保てるように見えるが、内側では常にビクビクしている状態が続く。

 

どちらも「できない自分は存在してはいけない」という同じ錯覚から来ている。

 


その思い込みは、どこから来たのか

「できなければ価値がない」という感覚は、多くの場合、幼い頃の環境の中で育まれる。

 

できたときだけ認められ、できなかったときには叱られたり、冷たくされたり、存在を否定されるような体験が積み重なると、

「自分の価値は、何かができるかどうかにかかっている」という思い込みが深く刻まれていく。

 

それは生き延びるための知恵だったかもしれない。

 

でも大人になった今も、その思い込みを抱えたまま生きていると、

どれだけ頑張っても「まだ足りない」「もっとできなければ」という緊張から抜け出せない。

 


できなくても、存在していい

「できる・できない」で自分の価値を測ることをやめる、というのは、努力しなくていいという話ではない。

 

できることがあれば、それを活かして動けばいい。

できないことがあれば、誰かに頼ればいい。

それだけのことだ。

 

できない自分を恥じる必要も、隠す必要も、罰する必要もない。

できることとできないことの両方を持った、今のそのままの自分が、すでに存在していい。

 

その感覚を少しずつ取り戻すことが、長年の生きづらさを変えていく入り口になる。

 


 

「私には価値があるか」と問い続けるより、「私はここにいる」という事実から始めてみる。

存在していることそのものが、すでに十分だ。